日記

日記です

エイリアンズ

3年後か5年後か、きっと出るだろう。

「あ、出てる、出ると思ってた。懐かしい、有名になった、よくライブ行ってたなあ」

と思っただろう。

その頃には今がいい思い出で、いろんなことが飽和状態から空中分解、宇宙の塵と消え、私は郊外で自転車を走らせている。

と予想していたけど、そんなのよりずっと早かった。

 

だからよかった。

今なんだ。

私の延長線上には、広大な駐車場のスーパーマーケット、郊外、でもそれなりに納得はしてる生活。仕方ないと言いながらも、言葉に比べればなかなか前向きに日々の生活を積み重ねている、大丈夫でそんなに悪くない暮らしがある。思ったより落ち込んでいない。懐かしい思い出をときどき桐箪笥から取り出して眺める。何もないがすがすがしい暮らしに、東京の時代の“あの頃”の片鱗が、テレビ画面にぽんと現れ流れ去る、と思っていた。

でもそれはやっぱり、少し寂しいパラレルワールドだったから今でよかった。

その線は無くなった。

よかった。私はまだ郊外の未来にいない。

 

ところでのんこと能年ちゃんのラインのCMの曲いい。

キリンジって名前しかしらなかった。

これを聴いてるとリバーズ・エッジの最後のシーンが思い浮かぶ。

https://www.youtube.com/watch?v=w05Q_aZKkFw

https://www.youtube.com/watch?v=w05Q_aZKkFw

いつも何度でも

いつも何度でもいうけど、真面目に律儀にやってきて、頑張りたくなくても頑張らざるをえなくて嫌なことを嫌々ながらもきちんとこなして、

その見返りってほんとに一個もなかったな。

40代後半の女上司

私が会社でイケてない地味女子に寄せているのが原因のひとつでもあるが、度々女上司が
「寒いのにさ~あーんな足だして無理して
わかんなーい よ、ねぇ?」
という類いの同意を求めがちである。

寒いのに無理してあーんな足出して、も、それはその人の趣味なので特になんとも思わない。

隣で薄着で来たくせに私のアウターなんぞを借りようものならイヤミのひとつも罵声のひとつも浴びせるが、特に迷惑を被っていなければなんら関係のない景色のひとつである。

強いて言えば、露出が多いか少なくないかより、お洒落か否かに注目することはあるだろう。

あの人お洒落だなあ、と思えばふり返るしそうでなければ気にも留めないだろう。

子供はいないが既婚で旦那さんとも仲のよい上司が、正直、若くかつ若さを謳歌しているように見える女性に嫉妬して言っているようにしか見えない。

独身で若くもない私が言うならまだしもなぜなのだ。

こういう人のまわりは、やはり、露出の多い女性を好むタイプの男性が多かったのだろうか。
たしかに、この上司はサチモスみたいなやんちゃなタイプの男性部下を可愛がっているし、こういう男性は容姿の女性性を全面に押し出した女性を好みそうだ。(だけどもう結婚してるんだしいいじゃねえか。)

あるいは、この上司自身、昔は露出多目の女性らしい格好を好んでしていたのかもしれない。
それが年齢による容姿の衰えでできなくなった、自粛した、あるいは、衰え始めた一時やっていたが、もう男性を惹き付けなくなりあきらめたのかもしれない。つまりは好んで趣味として露出の多い格好をしていたのではく、男性ウケを重視して服を選ぶタイプだったのかもしれない。

だから
露出が多い女=モテようとしてるorモテる

嫉妬

なのかもしれない。
"そういう服が好き"という趣味としての露出服という発想がないのかもしれない。

いずれにしても昔はモテたのかもしれない。
だから年齢による衰えを肌で感じやすいのだろうか。

だからといって、女性性を押し出した格好をしない女性と好んで親しくし、女性性を押し出した格好をする女性を嫌うというのは好きじゃない。
いや、それを認めるならまだ好きになれるかもしれないが、例えば露出を批判するときに"寒いのに無理して"などという言い方で、まるで格好を気にした浅はかな人間性を指摘するかのような、利便性の観点から意見したという傘を着るのが気に入らない。
ああいうモテようととした女きにくわねー!と叫んで地団駄踏んで悔しがればいいじゃないか。
それか自分も露出してはいかがか。

見たくはないが、好きな格好をしてるの後ろ指さされても私平気よっ!の方が気持ちがいい。
と、私もいろいろそれらしい理由をつけたのだが、上司がなんだか気に食わねぇという話である。

ノンフィクションのあの人

昨晩、久保みねヒャダを観ていたら、この前やっていたノンフィクションについて触れていた。

借金がありとにかく貧乏で、都内(だったかな)でもおそらく最も安い賃貸でクズ米と呼ばれる飼料用の米を食べ、解体作業の日雇いに出向く時には、さすがに人目にさらすのはと、お弁当には白米をもっていく(しかし弁当は白米と水だけである)、女性として生きていると思われる男性が主人公だった。
性別適合手術とか戸籍の変更とかそういうことをしているのかは知らないが、話し方も柔らかく、たしか髪も長く、女性として私は観ていた。


最終的にオカマバーのような店で働くことにより収入も安定して、ああ、これで借金も返せるね(そして人間らしい暮らしもできるしよかったね)とこちらが安心したものの、しかもそれまでに自殺未遂も経ているので、なおさら安定した収入がハッピーエンドに感じるのだが、以前も少し手を出していた(手を出すという私の言い方)地下アイドル活動の再開(そしてオカマバーも辞めていた)、彼女自身ではこれが「しっくりくる」生き方だと締めくくり終了した放送だった。
(しっくりくる生き方は今回のテーマでもあった)


久保さんは「なんで◯◯(オカマバーの店名)辞めちゃうんだよ!そこで働いておけよ」と思ったそうだがその瞬間、

自分は、彼女を"才能があって目標に向かって邁進する人"とは見ていない、自分より下に見ているから(オカマバーで)働いたらいいじゃん!っ思うんだよな、と思った

と言っていた。(ここで気づかされ納得したような千葉雄大くんの一瞬のしかめ面と深い頷きがとても良かった)

久保さんは続けて、だけど彼女は別に私たちを納得させるために生きてるわけじゃないから…ともやもやした気持ちを吐きつつこれがノンフィクションの良さだというようなことを言っていたような。

そうなのだ。やっと人並みの普通の生活の目処がたってよかったね、これで幸せだね、満足したよね、なんて、人並みになれてこれで幸せですねなんて傲慢である。

私もこのノンフィクションを観ていたのだが、幸せは自分の中の相対的なものでしか決められないのだと思った。

それは私に置き換えられる。
何がしたいかわからない状態から、何がしたいのかわかっている状態に移行したらそれだけで今は過去より幸せだと思っている。
本当は世の中のみんなは、例えば大学時代、高校時代の友人らは、すでにあの頃から何がしたいか、はある程度決まっていたのかもしれない。つまり今の私の状態。今の私の幸せのレベルはすでに届いていて、さらに更新していっているのかもしれない。


クズ米の彼女も、地下アイドルの夢、きっと夢というほど大きなものではなくて、興味のあることを誠心誠意やってみる、というレベルかもしれないが、それは普通の当たり前のことだと思う。

年齢がたしか30代後半だったが、アイドルになりたい、とか、サッカー選手になりたいからサッカーを始めてみるとか、それは普通のことだ。

なんというか、男性であるが女性としての自覚が芽生え女性なんだ、女性である自分を認めよう、と決めたときとかけっこう幸せだったんじゃないかな、とか思う。それから初めて夢みたいなことを見れるんだからステップとして流れとしては、地下アイドルをやってみたいというのも普通なんじゃないか。


最近、楽しさとか夢追いみたいなものは、満額いかないとやめられないんじゃないかと思っている。
生き物の鼓動の回数が上限まで達すると寿命がくるように、夢追いの鼓動の回数が満額いかないと"頭でわかってる生き方"はできないんじゃないかと思っている。

日曜の昼間にノンフィクションはやっている。
今日もそろそろ始まるはず。

BARというところ

バーテンダーがシャカシャカやって高いお酒を出して、酒と雰囲気と良い時間をじっくり味わう。

ていうのとはまた違うタイプのバーがそういえば存在する。

それを特に深く考えずに、おじさんとかじゃなく、まだおじさんじゃない若めの人が(かつ酒好きで交流好きの社交的な人が)集まるバーだ、という程度の認識でいたけど、しっかりと用途、目的があるのだなというのは発見だった。

 

高校時代、映画が好きでよくレンタルして観ていたんだけど、映画に限らずだが、そもそも映画を作る監督や脚本家っていうのは“そういう人”だから、やっぱり映画に出てくる人々や取り扱うテーマや場所も、“そういう”テーマ、“そういう”場所になりやすい。

私にとっては映画の世界、つまり業界って意味じゃなく“映画の中”というのは、“そういう”人々が出てきて“そういう”場所に集まることだった。

創作が好きな創作に携わる人が出向く場所っていうのがあって、そこで知り合う人ってのがいて、そういう人のつながりで行く場所ってのがある。

そういうのを目の当たりにすると「映画みたい」って思ってきた。案外いい大人になった今でもそう。

 

だから、“そういう”物を観に行って、“そういう”ことをしている人が、この後近くの友達の店でみんなで飲むんだけどよかったら、と言われて好奇心が刺激されないわけがない。

瞬時に脳があれこれ計算して「行く」という結論を弾いた。

計算の内訳は以下の通り

別世界の輪の中で浮かないかという心配と、NNO(なぜか/飲み会にいる/女)にはなりたくない・・・という懸念と“そういう”への好奇心(と少なからずのミーハー心)。

 

11時も過ぎたころ、続々と人が集まる。ライブハウスとラブホテルのある界隈の地下2階。

なるほど、と思った。

“そういう”ことをしている男性が始めたバーで、ここに誘ってくれた人も“そういう”人で、彼らの経験上かもしれないが、こういう同業の人がライブやなんかを終えた時にでも使ってもらおうという“そういう”場所なのだ。

友達の店、知り合いの店、そういう人の店。

だからおのずと“そういう”人が集う。業界人が集まるとか、若手の何々が集まるとか、そういう場所ってそういう風にできているのか。

 

それに確かに、普通のお客さんに開かれた、むしろ私たちにしてみれば私たちのために開かれた(だってこんなにも楽しんでいるんだし)この催し物も、何かと“そういう”人が、お仕事やお付き合いで観に来ていて、ある程度話が盛り上がったりしたら、意気投合した結果のご縁みたいな感じで人脈なり仕事なりに繋がる可能性もあるわけで、そういう時の、わざわざかしこまって席について会談するほどではないけれど、ここの立ち話よりかは落ち着いて話せる場所が必要なわけで。

 

だから、ってわけじゃないけど、わりと座ったりできるバースペースが併設された会場って多い。もちろん酒代である程度稼いで運営を続けていかないと、という店側の事情もあるのだろうけど。

 

しかしながら、イベントってものが、お客様のために開かれたものであると同時に同業者の社交界も兼ねていると気付いたのは今日が初めてじゃない。

小さなクラブかなんかで社交界を垣間見た時、映画みたいという華やぐ気持ちと少しの疎外感も感じた。

利害関係のある、利益をお互い産み出し合う可能性のある人達と、そうでない私たち。

てっきり楽しみにしているお客さんのためだけにあるのだと思っていた私たち。

 

そういう少し切ない疎外感はもう昔に感じたので、手段としてのイベントと交流について言及したいわけではない。

もちろんその理由には、ここに誘われたという選民意識が過去の疎外感の私を慰めてくれたからということも含まれる。

(だけど“そういう人”として誘われたわけではない。あの中で女で“そういう人”つまり利害関係の関係者だった人っていたのだろうか)

 

「誰がいてもいいって感じですよね」

 

そんな感じだった。エスカレーターを降りたらもう店内で、地下のわりには天井が高く広めのカラオケ部屋と言った感じ。

みんなで飲みに行くと言われていたものの、実際は声をかけた人が最後に合流し、おそらく(私もそうだったけど)声がかかった人は個々にその店に移動し、店内ではそれぞれ特に知り合い同士ではない人が、各々の輪を作っていた。

その夜は誰かが誰かの知り合いで、そりゃオープンしたばっかだし、まだまだ知り合いしか足を運ばないだろう、だけど雑多な雰囲気で、気軽で、とりあえず場を提供してほしい人にちょうどいい店だった。

 

↓↓↓そんな、気軽に飲めるアットホームなバーがこちら↓↓↓

 

 

とURLを載せて宣伝したいわけではなくて。

バーテンダーが本気の酒を出すわけではない店、クラブとかライブハウスのバーカウンターを切り抜いて店にしたようなかしこまらない店。

そういう店が何のためにあるのか知った夜だった。

ビールを1杯飲んですぐ帰った。

 

こういうエッセイ調の食べログの口コミを目にしたことがあるよ。

この季節になると思い出す

この季節になると思い出す。

あれは年度末でそろそろ定期が切れる頃、更新をしようと駅に向かった日曜日。

年度末特有の落ち着かなさと、明日からまた一週間が始まるという既に憂鬱な日曜だったこともあって、この出来事は私には無関係にもかかわらずものすごく憂鬱になった。

前にもブログに書いていたかもしれない。

 

 

中学生にも主婦にも見えるような、だけどおそらく10代後半か20代前半かもしれないけど、全体的に淡い色の服を着ていて、淡い色のパンッパンのカバンを肩から掛け、

(そのパンパンのカバンがまた主婦感を増長させていた)

眠そうな意志薄弱そうな顔つきの、すこしぽっちゃりした女の子。

女の子というくらいの、もしかしたら高校生くらいの、いや、もしかしたらほんとに中学生だったのかもしれない。

 

駅員室の前で駅員さんになにやら訴えていた。

「・・・の人が、  を触ってきたんです」

聞き取れず無愛想というか平静の様子で「え?」と聞き返す駅員さん。

少し声を張って「隣の人が、体をさわって来たんです」言い終わる前に声が泣いている女の子。

少し慌てて駅員室に通し(マニュアルなのか)奥の部屋で誰か女性にバトンタッチしていた、もしかしたら隣に交番もあるし女性警察官だったのかもしれない。

女の子の涙声を聞いて、ああ、言ってるうちに泣けてきたんだなと思った。

それを人に訴えて、その言葉が自分の耳に入って改めて脳が起きたことを解析して、そりゃ泣けてくるわ。

 

だけどもうなんか、生きれない。こういうことが毎日起きてて、こういうことっていうのは痴漢を指してるんじゃないんだ。

 

その女の子は可愛いわけじゃなくて、失礼ながらどちらかといえば可愛いの対極に振り分けられそうなそういう子で、昔、痴漢は“言えなそうな子”を選ぶと聞いたことがあったんだけど、おとなしそうな子を選ぶと、確かにおとなしい言えなそうな子を選んだ方が安全だよなあなんて思ってたんだけど、言えなそうって、言えなそうって、もう頭をかかえたくなるんだけどこういうことなの?

私の個人的な解釈としては、自分で自分のことを、男性の性欲の対象にはならないだろうと、セックスアピールみたいなものはどちらかというとないだろうと、自覚しているような子を選ぶってことだったの?と。

自分が痴漢の被害を、性的な目で見られる以上の扱いを不本意に受けましたと、自己申告しても、ましてや男性駅員に自己申告しても、申告したことで予期せずさらに傷つく扱いを受けるんじゃないかと言う心配が頭をよぎるであろう、そんな子をあえて選ぶのか。

そういう現実を見たのがもう3,4年前。

あれからも時々思い出している。

知人が地元に帰っているようだ

SNSで人の動向を知ることが多いが、SNSレベルの人付き合いの相手というか、がっつり幼少のころからの友人とか、いつも仲良しのいつものメンバーというほどでもなく、いつも一緒何でも知ってる、わけではない付き合いの、そういう人物をSNSレベルの人付き合いと言っておこうここでは。

 

が、毎日開くSNSだったりすると、毎日そのライトな人付き合いの相手の生活の一部をのぞき見ることになる。

 

そんな知人が、だいぶ前に年明けもずいぶん経った頃地元に帰っていたようで、冠婚葬祭のなにかかしら、と思っていた。

それから1か月ほどたち、どうも再び帰省しているらしい。

となると冠婚葬祭か、その布石という状況なのだろうか、そういう気持ちで見守っていたが、具体的に何があったとは示されないが、「祖母」「病院」という単語が目に入ってきた。

この知人の家族は、家族、親族、共同体を大事にしていそうなので、そこから誰かが亡くなるという状況は、とても悲しいだろうと想像すると、気の毒になる。

 

去年の6月私の祖母が亡くなった。

が、私にとってそれは一大事にはならなかった。

そうか、という感じだった。

棺に入れるときの、足袋を履かせたりとか花を飾ったりとか、そういう作業を親族として施した際はぽたぽたと涙があふれてきたが、それは長く暮らした人ともう二度と会うことも言葉を交わすこともないのだなという感覚と、アルツハイマーが進んでいたが、時折孫の名前を口に出していたという話を聞いていたので、おばあちゃんという生き物は、孫がかわいいのだな、しかしその孫というのは、つまり私は深く感傷に浸るでもなく薄情な生き物だな、という、一人の老婆の孫が薄情で老婆からの愛情は一方通行で、それはなんだか可哀相に感じて泣けてきたのだった。

 

もしも将来孫ができても、私はさして孫から愛されず大切にもされないことだろう。

 

が、このSNSの知人の家はきっと違うだろう。

家族との永遠の別れを、心の底から惜しむだろう。その悲しさを想像すると悲しい気持ちになる。