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日記

日記です

泡の夜

関係と言うのはサメと同じで常に前進していないと死ぬ

 

とはアニー・ホールのセリフ。

 

先日ライブに行ってきました。

前回飲みたかったのに頼まなかったギネスビールを飲んで、もう通いなれたようなこのライブハウスで平日の夜を楽しむ。そんな夜が日々の間にあると1週間が早く過ぎるオマケもついてくる気がする。

子供の頃からシュワシュワ消えるビールの泡は好きだった。

 

さて、ライブ後の人が滞留する時間、個人的にこの滞留(交流)タイムは少し早すぎかな?くらいに切り上げて帰るのがベストだと思っています。

なぜなら、お互いに“お腹いっぱい”にならないから。

それと私には、知れば知るほど底が浅くて掘れば掘るほどぼろが出て飽きられる懸念、というのが常にあるからです。

だから今まであまり、この引き際のタイミングをミスることはなかった。

 

でも先日のライブで、その滞留(交流)タイムで予定より長期滞在したものの大きなミスをしたとは思ってはないんだ。(小さなミスは山ほど)

いつもお店の外、ガラスケースの外から眺めてたお店の主要“商品”そのものと言っても過言ではない人々が、ガラスケースから飛び出して、楽しくおしゃべりしている場面を間近で目撃できて、しかもそこに自分たちも混ざっているなんて少し感動。1年前ならこんなこと考えられなかった。

 

が、同時に、こうして素敵な人達と丸テーブルを囲んで、お酒も手元にあって、一通り交流が終わって、さて、これ以上の進行ってあるのかな?という疑問が湧いた。

 

夢にまで見た場面だった気がするんだよね。で、それが(欲を言えばもっとこうすればよかった、こうしたかった、ってあるけど)実現した。あちらさんからの私たちに聞いてみたかった疑問質問も、今回でおおかたすべてクリアになったんじゃないかな。もうお茶碗の底みえちゃったっていうか、これ以上ここの関係が前進ってない気もして、もしかして、あとはこの関係が死ぬのを見届けるだけなのかなって思ったんだ。

小さなてっぺんだけど、あとは下山するだけっていうか。

 

できればそうしたくない。

そうならない方法が私は1つあると思っていて、でもそれはなかなか簡単じゃない。それは、素敵な人達に認めてもらうということ。自分もガラスケースの中の商品になるということ。

だとは思うんだけど、あまりに欲求のサイズが大きいと、フラストレーションにも陥りやすいわけで、そうなると日々平穏に、風通しよく心地よく暮らすことに支障をきたす。

鬱屈したもんが内面にあったらそれが外に出ちゃうじゃないか。

 

死を本当に間近に感じた人間は、もう前のようには暮らせないんだとサルトルの本で読んだ。もう生きていても、すべてが死の前では無意味ってわかりすぎてて、自分を含め、取り巻くすべての物に意味だとか感じられないみたい。

 

 

起きている間って自分を満足させるのに骨が折れる。