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日記

日記です

知った感覚2

男性はその“事”にたいして腹を立てるが、

女性は“私自身”に腹を立てられた、私のことが嫌いなんだ、と受け取る。

 

と、なにかのビジネスシーンにおける事象を解説する番組で見たことがある。

 

それを踏まえるならば、店主(男性)は“声の大きさ”のみ頂けなかったわけで、“私たち”に拒絶の気持ちがあったわけではない。

と思うこともできる。

が、これを書いたのは、ただ単に私が被害妄想過剰の女と思われないために冷静ぶって書いただけで、なんとなく気持ちが塞いでしまうのは一晩経っても払拭できないでいる。

 

ここしばらくは、初めての場所に出向いてなんとなく歓迎の空気を感じることが多かった。しかし、この出来事、この羞恥心と、怒りで包装したものの蓋を開ければ悲しさが詰まったこの感じ。

久々だけど、ちゃんと覚えがある。

 

今回の出来事とは別で、今回の件がこれから言うことにばっちりと該当するというわけではない。多少それを匂わせる、香りで記憶が呼び起されたというようなことである。

 

覚えがあるのはこの感じ。

こちらが好意的に見ている相手がいて、こちらに悪意も敵意もないので、当然フラットな状態、ゼロの状態が相手にもあるだろうという前提がこちらの意識にある。

そのため、こちらが笑顔と好意で接することで、相手のゼロには好意がプラスされ、相手も同じようにこちらに好意的に接するだろう。目には見えないがお互い“好感”を共有するはずだ、と思って接したものの、思いもよらず、それは例えば握手をしようと右手を差し出したのにもかかわらず、その手が握られることは無く空中に放置されるように、こちらの好感や好意が疎ましかったようだと察せられる感じ。

 

すごく慣れ親しんだ感覚であり、大人になるとだいぶ減る経験でもある。

 

それは、会社や組織の中の自分として人と接することが多くなることで、こちらも相手も、社会的な好意を表明しそれを交換する、深入りはしない前提の社会用の顔で接する名刺交換のような交流が増えるからだろう。

この名刺交換の交流は、ある程度不自由でしがらみが多い分安全である。

お互いにある程度抑制された状態で発する言葉なので、お互いに本心や本音、個人的な感情は別のところにあるのは分かっているので傷つくことがあまり無いように思う。

 

今、真っ先に思い出すのは、大学1年の入学してすぐのオリエンテーションでの1泊旅行のこと。

名前順で数人ごとに部屋分けされたのだが、私の部屋には華やかな女の子がいたため、そこに他の既に親しいらしい女の子と、男の子が集まったのだった。

まだ出会って間もない時で、その華やかな子は私にも輪に入らないかと声をかけてくれたが、もう一人の友人関係が構築されかけていた女の子がかなりの拒否反応だったので、そのまま別の部屋へと退散することにしたのだった。

明らかに体育会系と言った感じの男が数名いて、女子高だったこともありそんな人と接するのは中学生ぶりだった。今現在でも私はこのてのタイプが苦手だが、上京と大学入学、学生ライフをエンジョイするならば最初が肝心だし、拒否反応を示すのは失礼な気がしたし、それに男の子と仲良くなってみたい気持ちもあったので、この輪から逃げ出す(追い出される?)ものの、今後も皆と友好的な関係が築けるように、なるべく笑顔で気に入られようと部屋を出る際に“気軽に”声をかけてみた。何と言ったか覚えていないが、努めて明るく笑顔で、何するの?とか、何か去り際に言ったはずだった。

すると私が何か言い終える前に

「はい、じゃあねえー。はい、ハイッ」

と、ゴリラのような、ハクション大魔王の壺のような顔をした男に言われたのだった。

最後の「はい、ハイッ」は、私がまだ何か言葉を続けていたのでそれを遮るような言い方で、母親からの面倒な電話を切る時なんかを連想させた。

 

 

恋愛テクに“好意の返報性”なんてあるけどクソくらえである。

好意を示せば好意が返ってくるだと?よく言えたもんだ。

 

昨晩のお気に入りのお店、少なからず好意を抱いていた店での一幕と、オリエンテーションでの思い出とは、似ていないように見えるかもしれないが、好意が宙ぶらりんになって受け取り手がいないという点で共通している。

 

このような経験は、誰しも通過するわけではないのだろうか。

なぜなら、“恋愛の諸先輩方”は言いがちである。

 

「もっと○○ちゃんの方から心を開かないと」

「○○ちゃんがちょっと心を閉ざしてる」

「自分から歩み寄らないとダメ」

 

んなこと十分やってきたわ!

 

挙句その仕打ちがこれじゃねえかよ。

 

昨晩のことは、あまりに大事に受け止めすぎてはいるが、かつての意識を呼び戻す出来事だった。

 

 

 

 

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私は知らない人に会う時は緊張感を持って、というか単に緊張もあるけれど、緊張感と警戒心を持って接している。

だからそもそもあまり自分から積極的に人に話しかけないし、“この人に話かれられても嫌な気はしない人”になれるよう、出かけるときはお洒落をしてカバーしているつもりだ。(必ずしもお洒落が武器になるわけではないが、第一印象の見た目で取り繕う他の方法が思いつかない)

カバーとはいったいなんなんだろう。

カバーは欠点や短所や弱点を補うような意味で用いられる言葉だ。

 

 

最近はそのカバーのおかげか、意識的にやっている謙虚さや控えめな態度のおかげか、“仕打ち”めいた出来事が無かった。

 

もしかすると“諸先輩方”は、たった一回無下にされたくらいではへこたれず、きちんと自分を、自分の良さを、理解してもらって、結婚なりなんなりしているのかもしれない。

いわゆる傷つくことを恐れない、勇敢な戦士たちなのかもしれない。

だけど、そうなれない私が悪いんだ、すぐに傷ついたりプライドを守ろうとする姿勢が悪いんだ。とも全然思いたくない。

他人を傷つけているわけでもないんだから、自虐的にもならず、もっと自由に堂々と

していたい。身に付けるべきものがあるとすればそれだと思われる。

と、いうか、後ろめたさがないなら私が勝手に自信を持って堂々としてればいいのだけど、やっぱり昨晩のようなことがあると簡単に揺らぐ。

人に嫌われたくはないが、悪いことしてないんだから嫌われるわけがないし、嫌う方が変なんだ、と思えるようになりたい。

 

それな。

(去年よく目にした言葉“それな”を使う機会が無かったのでここで使ってみた)