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日記

日記です

自分のカラを破って…

自分のカラを破って!的なことって誰が考え付いたんだろ。

おとなしい自分のカラを破って、明るく活発で行動的なアゲぽよになって。

が多分正解で、

おとなしい自分のカラを破って、周囲に迎合せず愛想笑いすらしなく、嫌なことは嫌とはっきり自己主張して。
ではない。

自分のカラを破って、私の期待通りの反応をして。
自分のカラを破って、私の期待通りの反応をすることを楽しんで私の期待にそうことを喜んで。

身体を使って表現するのが得意な人、カラオケでダンスするとか、プラスやマイナスの意思表示をはっきり言葉で表すとかが得意な人に、意見を言うのが得意じゃない人が合わせて迎合するか、同じ声の大きさ強さを振り絞って叫ぶとかして釣り合わせていかないといけない。


職場のコンサバ系女子に今度○○(うちの近所)にあるパクチー料理にいきましょう!と誘われ、いいですね!とは言ったものの社交辞令だろうと思い忘れていたんだけど、また「仕事帰りいきましょうね!」と言われ、あれ?本気なのかな?と困惑している。

正直なところ、お互いさして楽しくはないんじゃないかと思っている。
なぜ誘ってきたのだろう。
やはりこういう明るい人は、いまいち距離が縮まっていない同僚とはあえて飲みに行って気まずさを解消しよりよい働きやすい環境にしよう!と考えるのだろうか。

人ははっきり言って人の話を聞いても楽しくないと思っている。自分の話をする分には楽しいが、人の話を聞いて相槌をうっている間は楽しくない。

会社内での私と彼女の関係は、私が自分のことを話さない分そういう関係である。

彼女は自分のことを話す、と言っても腹をわって本心を話しているわけではなく、人に見せても無害な部分をさらけ出して(つまりさらけ出してはいないし、必要もない)いて、休日どこに行ったとか、何にハマっているとかそういう話である。
私もギブアンドテイクで休日映画(シンゴジラとか)を見たとか話せばいいのだが、というかそういうことが本当にあれば話しているのだが、そういう誰にでも伝わる近況のような浅いネタがなくてあまり自分の話をしない。そのため聞き役に回っているので仕方ないといえば仕方ない。

しかしそんなわけなので、万が一食事に行った場合も、その道中から帰り道まで「楽しかったですねーまた行きましょう!」なんて言っても実際は間があきすぎないように言葉を繋いだり、会社の人なのであまりにネガティブな話題は避けたりと、なにかと気を使う時間になるのが億劫である。

誘う側はそうでもないのだろうか。
そうでもないのだろうと思っている。

というのも多少は(私の方が後から入った後輩というのもあるし)見下している、というのは言葉が悪いが、私が彼女にとって脅威ではないのでどう思われてもいい(ある意味どうでもいい)し、だから彼女なりの"楽しさ"というかやり方に私を付き合わせる形になることに関しては何も思わないからこそ誘えるのだろうと思う。

私はと言うと、彼女と仲良くなることはないだろう、不可能だろうと思っていて、それは明確な根拠はないがおそらく単に見た目の差だろうと思う。
見た目の違いはライフスタイルの違い、人生へのスタンスの違いでもある気がする。

最近マンボウやしろ(だったかな)のコラムを読んでいたら、こんなことが書いてあった。
男女は3種類に分けられると。

男として生まれ男として生きる人
女として生まれ女として生きる人
人間として生まれ人間として生きる人

この中でも、男として生まれ男として生きる人と、女として生まれ女として生きる人同士は上手くいく。
しかし、人間として生まれ…の人は男として、女として、の人と(ここでは恋愛関係に特化した話だったが)はなかなか上手くいかない気がする、人間として生まれ人間として生きる人はそれ同士じゃないと。
という話だった。

彼女は完全に、女として生まれ女として生きる人である。
それは別にいいことだと思う、というか私には関係がない。しかし、大きく根本的に違う人と異文化交流して楽しいと思える(自分磨きや、視野が広かっただのとの名のもとに楽しいと自らに誤認させる)年齢ではない。

彼女は容姿に自信があるので、自ずと社交性にも自信がつく。彼女と話して楽しいとは思わないが、社交性とは楽しいかどうかより、笑顔で話しかけるのが得意かどうかだ。

よく他の男性社員に友達と行ったプールの写真、水着姿の写真を見せたりしているので、容姿に自信があるし、だからこそ人の目に触れされたいのであるが、痩せているのは羨ましいものの、ビキニ姿を人に見せることへ価値を見いださないタイプの私が、彼女と心を通わすことができると思っていないし、心を通わすなんてことはおそらく彼女も重要視しておらず、何かしらの体裁のためのポーズなのか、食事に行き日頃の会話量が増えることが自分にとっての何らかのメリットになると踏み、そのための飲みに行きましょうなのかもしれないが、私は会社に話す人がおらず退屈することには慣れているので、いわば"付き合い"のために食事に行きたいと思わないのである。

私は彼女に(マイナーな)ライブに行った話も、近所のギャラリーでやっていた展示の話も、最近読んだ本も、彼女にとって(そしてそれを話す私にとって)退屈するだろうから話すつもりもない。

脱線するが、少なくとも会社の男性は、私が、というかおそらく"私のような人"というのは、本心では"彼女のような人"に憧れているがそうなれない、なれなかった、つまり未到達、未完成、未成功、失敗してしまった(でも大丈夫、キミにはキミのよさがあるよ笑)と捉えているようだと思う。

女として生まれ、女として生きていないひとは、生きていないのではなく生きれない、本当の自分→女になりきれていない、と思うのだろうか。

そういえば隣のデスクの男性に何か冗談を言うような場面で、「カワイイは作れる!ですよ 笑」と言ったら「自分がなってから言え」と言われました。

大人になってから遠回し(でもないか)にでもブスと言われたのは初めてかもしれない。

こういうことも我慢して、飲み会ではブスながらもダンスとかして、コンサバ女子の聞き役に徹する…というのは誰にとって幸福なんだろうか。