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日記

日記です

ノンフィクションのあの人

昨晩、久保みねヒャダを観ていたら、この前やっていたノンフィクションについて触れていた。

借金がありとにかく貧乏で、都内(だったかな)でもおそらく最も安い賃貸でクズ米と呼ばれる飼料用の米を食べ、解体作業の日雇いに出向く時には、さすがに人目にさらすのはと、お弁当には白米をもっていく(しかし弁当は白米と水だけである)、女性として生きていると思われる男性が主人公だった。
性別適合手術とか戸籍の変更とかそういうことをしているのかは知らないが、話し方も柔らかく、たしか髪も長く、女性として私は観ていた。


最終的にオカマバーのような店で働くことにより収入も安定して、ああ、これで借金も返せるね(そして人間らしい暮らしもできるしよかったね)とこちらが安心したものの、しかもそれまでに自殺未遂も経ているので、なおさら安定した収入がハッピーエンドに感じるのだが、以前も少し手を出していた(手を出すという私の言い方)地下アイドル活動の再開(そしてオカマバーも辞めていた)、彼女自身ではこれが「しっくりくる」生き方だと締めくくり終了した放送だった。
(しっくりくる生き方は今回のテーマでもあった)


久保さんは「なんで◯◯(オカマバーの店名)辞めちゃうんだよ!そこで働いておけよ」と思ったそうだがその瞬間、

自分は、彼女を"才能があって目標に向かって邁進する人"とは見ていない、自分より下に見ているから(オカマバーで)働いたらいいじゃん!っ思うんだよな、と思った

と言っていた。(ここで気づかされ納得したような千葉雄大くんの一瞬のしかめ面と深い頷きがとても良かった)

久保さんは続けて、だけど彼女は別に私たちを納得させるために生きてるわけじゃないから…ともやもやした気持ちを吐きつつこれがノンフィクションの良さだというようなことを言っていたような。

そうなのだ。やっと人並みの普通の生活の目処がたってよかったね、これで幸せだね、満足したよね、なんて、人並みになれてこれで幸せですねなんて傲慢である。

私もこのノンフィクションを観ていたのだが、幸せは自分の中の相対的なものでしか決められないのだと思った。

それは私に置き換えられる。
何がしたいかわからない状態から、何がしたいのかわかっている状態に移行したらそれだけで今は過去より幸せだと思っている。
本当は世の中のみんなは、例えば大学時代、高校時代の友人らは、すでにあの頃から何がしたいか、はある程度決まっていたのかもしれない。つまり今の私の状態。今の私の幸せのレベルはすでに届いていて、さらに更新していっているのかもしれない。


クズ米の彼女も、地下アイドルの夢、きっと夢というほど大きなものではなくて、興味のあることを誠心誠意やってみる、というレベルかもしれないが、それは普通の当たり前のことだと思う。

年齢がたしか30代後半だったが、アイドルになりたい、とか、サッカー選手になりたいからサッカーを始めてみるとか、それは普通のことだ。

なんというか、男性であるが女性としての自覚が芽生え女性なんだ、女性である自分を認めよう、と決めたときとかけっこう幸せだったんじゃないかな、とか思う。それから初めて夢みたいなことを見れるんだからステップとして流れとしては、地下アイドルをやってみたいというのも普通なんじゃないか。


最近、楽しさとか夢追いみたいなものは、満額いかないとやめられないんじゃないかと思っている。
生き物の鼓動の回数が上限まで達すると寿命がくるように、夢追いの鼓動の回数が満額いかないと"頭でわかってる生き方"はできないんじゃないかと思っている。

日曜の昼間にノンフィクションはやっている。
今日もそろそろ始まるはず。