日記

日記です

勝手にふるえてろ 観てきた つづき

友人より「私たちはどうやったら各々の現実の世界で二のことを好きになれるのか」という問題提起がなされた。

それを別の友人たちに問題提起してみたところ、我々の選択肢は二しかないのか。と返答があった。

私も同意見で、イチでも二でもない、ゼロとかサンという選択肢はないのかと、猛抗議したい気持ち。

なぜなら、世の中のカップルはお似合いの人とくっついているように見えるからである。
基本的には目に留まるカップルなので、そりゃお洒落な彼氏とお洒落な彼女など、いい組み合わせの例になるが、フェスなどて見かけるような、見た目もどことなく雰囲気が似ていて、よって想像するに趣味なんや好きなものや考え方なども似ているのではないかと思われるような、そんなお似合いのカップルである。
理想とするならそうしたいい組み合わせになるのは当然で、私たちはそれを望めないのか?という不公平さにこれまで何度も味わってきた人生の挫折を覚える。

ヨシカは「私ごときが望んじゃいけない」と時折自己肯定感が大きく揺らぐ。
その気持ちはすごくわかるし、ずっと彼氏なし処女という条件が揃うと自分にはなにか欠落している、他人より劣っている、だから誰からも愛されないのだと思ってしまう気持ちはわかる。
自分は足りない何か人より劣っている、だから普通のみんなみたいにみんなが手にしているものを同等に得られるなんて望んじゃいけない、そういう考え方なのだと思う。
そしてできれば、同じようにどこか自分の存在に不安を感じている人と巡り会って信頼関係を築きたいのではないだろうか。
対して二の方は、人には誰でも欠点はある、でもお互いに欠点があるのだから許し合うべき、みたいな(忘れた)内容のことわ言っており、欠点があるから自分はダメ人間、ではなく、自分も欠点があるし他人にもある、それが当たり前という考え方。
ヨシカに対しては、わからないから好きであり、そして「ちゃんと好き」とのこと。

私もヨシカのように「欠点があるからダメだ」派なので、この二の台詞を前に、いつだって二みたいな人の方が大人で嫌になる、と思いました。
そう、それでも二を好きにはなれなかったし、なんでヨシカ、二なんだよ!となってしまった。

やはり二のことを好きになれないのは、自分の鏡映しじゃないからだろう。
だけど二を好きにならなければならない、という気持ちがするのは二が正しいように感じるからである。それがこの映画の後味の悪さである。(映画自体面白いのだけど見終わってヒリヒリするという意味で)
ちなみに個人的には、勝手にふるえてろは逆アメリで大人版ゴーストワールドという感じ。
アメリみたいな理想的な終わりかたをするファンタジーハッピーエンドではないし、勢いで会社を辞め周囲の"大人"感を痛感するヨシカにゴーストワールドのイーニドの姿が重なる。

ゴーストワールドで思わず泣きそうになるシーンがある。レコードをかけるシーンで、子供向けっぽい歌をイーニドがちょっとセンチメンタルに聴く場面は、その歌詞に胸をしめつけられる。
「リボンを結べば特別になれる」
https://youtu.be/_ZGfdFL0aiE