日記

日記です

漫画を読んだ

いろいろなミュージシャンが帯にコメントしてるエッセイ漫画を読んだ。
元々は友人が結婚することになったために、彼女のことを描こうと漫画をネット公開していたのが広がって書籍化されたらしい。

エッセイ漫画なので主人公が紆余曲折経て漫画を描き始めるまでがまとめられており、世代が近いためが、彼女らの愉快な幼少期のエピソードには知っているゲームやオモチャの話題も多かった。

この漫画をおすすめしてくれた人が好きなシーンとして言っていた部分がとてもよくて、読む前にそのシーンのことを聞きながら半泣きになってしまった。
そのためか、読み初めてからの期待値が上がったためか、エモイ!みたいな感情のピークは、その話を聞いた時が最も高かった。

と、いうことを言ったら、主人公がいろいろ悩みながら躊躇いながらも漫画を描くと決めるところ、描きはじめるところもよくなかったかと聞かれた。

確かに、過去にグループ展を始めたときなんかは、やってみたい気持ちと不安と葛藤が最も大きかったので、すごく既視感のある葛藤だったし、わりと誰もが通る最初のハードルだろう。(ただし、私には主人公のように「漫画を描くべきだ!」と言う友人はいなかったように思うが、友人がはっきり言ってくれるのは、主人公の人柄がいいからこそだろうなと思った)
幼少期には明るくいつも面白いイタズラをして、漫画を描いては友達に見せていた主人公が、大人になっていつの間にか、10代の頃の「無敵感」をすっかり無くし、私と同じただの大人になっているのは切なかったし、そこから再起する重要なシーンだった。

ところで私はというと、11月頃から、いやその前からいろいろと不調だった。
しばらく腕の痛みと痺れが続いていたし、原因は不明で、それでもネームを仕上げては編集さんにボツをくらい、明らかに編集さんとの打ち合わせも回を重ねるごとにテンションが下がっていく。
そんなわけで、11月はじっくり描き直すつもりでけっきょくズルズル、なにもかも保留の、考えるだけで何もしない時間が続いた。
何もしないことでより一層考えのドツボにはまる負のループだった。

そんな最中、「でも、やった方がいい…」と言ってくれる人がいた。それも2人いた。

例の漫画同様、やはり何か作っている人はそう言うのだ。静かに力強く余計な説明はなにもなく、ものをつくることをすすめる。

先の「やった方がいい」と言ったうちの一人は、この漫画をおすすめしてくれた人だった。

やった方がいい…
そういえば2年くらい前だが、友人が貸してくれた漫画がなかなか示唆的で、3冊のうち2冊は「あの時やっぱりやるべきだった」と過去を悔やむ話だった。

やっぱりあの時ああしていればよかった、の「あの時」が今なのだ。

やった方がいい、と言ってくれる人に感謝している。

オフィスでラブなのか???

夏に買っていた「なぜオフィスでラブなのか」を読み終えるところだった。

今の会社は退職の最終出勤日に「退職のご挨拶」メールを社内アプリに送る風習があり私もそれにならって朝にはそれをメールしていたのだが、10月に別の支店に異動になった男性社員からそのことで電話があったのだった。

特段仲がいいわけでもなく、というか私は社内の男性社員(事務である私とは仕事の内

容も違うので)とほとんど話すこともないので接点というほどのものもなかった。

退職するんですね、お疲れ様でした、というよくある挨拶をはさみ、転職をするとか今度の会社はどのあたりだとかそんな会話を一通り終えると、突然「設計室の男性を紹介しようと思ってたんですけど」と言われ、突然すぎて返す言葉もなく「あー、そうなんですか?」とか言っていたら電話は終わった。

設計室という部署は3人だけで構成されており、男性は2人、そのうち1人はカッコいい男性がいたが、おそらくその男性は私のことを知らないし私も話したことも接点も一切ない。

しかし、きっと先ほど電話をくれた男性の目的はそういうことであろうし、そんなことめったにないので、名簿で彼の会社携帯を調べSMSを送ってみた。

これで2対2で合コンみたいになったとして、そんなこともう何年振りだし、そもそもアプリを利用しないで男性と食事に行くことなんて、悲しいかな年齢的にももうないだろう。

あー、ていうか、私死ぬまでにもう1回くらい「恋する男性とデート」してみたかったなあ、とか遠い目をしてしまう。

 

ともかく、こんなことは今まで1回もなかった。

中高大を卒業するタイミングで「連絡先交換しましょう!」とかもなかったし、今まで会社を辞めるとか異動するとかのタイミングで「今度食事でも!」とか、んなこと1回もなかった。

 

それに、人を食事とかに誘うのって結構勇気いるよね、どうりでなんか電話の話もかみ合わなかったわけだ、というわけで「今度みんなでご飯でも行きますか?友達誘いますよ!」とかなり好意的にメッセージを送ってみた。

 

すると「食事行きましょう」と改めて言われ、話が進んで行くにつれ、なぜか設計室の男性は出てこない。

日にちが決まりかけたところで、友人の予定もあるし友人を連れて行くべきかどうか問うと、もう一人が予定つかなかったので2人でもいいですか?と返って来た。

というか、なんとなく察しはついていたけど、もともとそういうつもりだったのだろう。

にしても、設計室の男性は最初から来ない、というか関係なかったわけだけど、こんなすぐバレる嘘をついて、自身の誠実性に対する評価が下がってマイナススタートだと思わないのだろうか?と非常に疑問だった。

 

しかし、うっすら気づいていたことなのでそこは特に不満を持たず食事をすることにした。

 

ちなみに、私は去年マッチングアプリをやった経験から、あまり男性からの誘いに好意があるとは期待しなくなった。

というのも、経験上学んだのは以下の通り。

1、男性は比較的誰でもいい

2、私を誘うのは私生活で何かがあってとりあえず手近なものをチョイスした結果

3、好意が無くてもイケそうなら好きになれるらしい

 

特に2に関しては、私も去年アプリ以外の男性とデートしなければならないと疑心暗鬼になったとき、前の会社の取引先の男性に連絡をとったことがあるので、好きかどうかなんて関係なく、こっちの都合とかタイミングで人を食事に誘うことはよくあるのかもしれない。

なので、例の男性も例えばアプリがうまくいってないとか、彼女と別れたとか、そういう理由でトシが近そうで未婚の女性に声をかけたのではないだろうか。

だって、全然仲が良かったわけでもないし、仕事上の事務的な会話以外したこともないし。

 

しかし、一応支店が同じだったときは、いたって普通の社員で、備品が届いたときなんかに率先して手伝ってくれる数少ない良い社員だった。

会社には「こないだスナックのネーチャンに会ったらさあ」とか「飲み会でセクハラしちゃってたらごめんねー」とかいうノリを崇拝している前時代的な男性がいたり、声が全然聞こえないガチコミュ障の男性がいたり、平気でゲップをカマしてしまうまた別のコミュ障男性がいたりするので、彼のようなごく普通の社員はかなり珍しくむしろいい方であろう。

そんなわけで特段嫌なイメージもなかったので、ご飯くらい行ってみようという気になった。

 

ごく普通の男性と、オフィスラブ文化が栄えている日本でいけはごく普通のキッカケで行く食事ではないだろうか。

そう、去年の私ならマッチングアプリで出会うなんて嫌だ、という気持ちもあったので、こんな展開、こんな「自然な出会い」見逃すわけにはいかなかったのではないだろうか?

ちなみに、最近はめちゃくちゃ可愛い29歳の子が普通にマッチングアプリを活用してガンガン彼氏を作っているのを見て、こんな可愛い子が使ってるならマッチングアプリって全然ヤバくないじゃん、むしろ普通なのでは?と考えが軟化したタイミングでもあった。

 

が、マッチングアプリにおいて、可愛くも若くもない女と、かっこよくも金もない男では圧倒的に不利で出会えないのも事実ではないだろうか。

それを踏まえると、マッチングアプリが一定範囲広まった今、アプリ弱者はこうしてリアル市場に還元されているのかもしれない。

 

で、新宿で食事をすることになったのだが、なんとまあきちんと店は予約され和食居酒屋の個室風に区切られた席でコース料理が運ばれてきたのだった。

湯葉、小鉢、お刺身、ステーキ、鯛めし、デザート…

ラインでやりとりしている時に、いくつかピックアップしてもらった食べログを見ながら、価格帯がそこそこいい値段で「えー、たっか、ガチじゃん?」とちょっと萎えたのだが(気軽な飯じゃないなんて気負うし)相手のチョイスを否定するわけにもいかない。

というか、ガチじゃん?となってしまう時点で、これまた去年と同じくあまり付き合うつもりのない男性と食事をしてしまうループを今年もやってしまったのだ。

 

あまり話したこともなかったので、今回の食事で初めて年齢(2歳上)と私服を知った。

私服の感想を一応添えるなら「んもー木嶋佳苗にふられちゃいますよ!」っていうコーデだった。(木嶋佳苗は交際相手に黒を着ていればお洒落というその神経が嫌、という手紙を書いている)

ちなみに、この男性は黒をお洒落着としてチョイスしているわけではなく、多分無難な仕事着として、アウター黒、リュック黒、ズボン黒、となってしまった感じ。

中はくすんだモスグリーンのセーターを着ており、足元は普通にスニーカーだった。

というのも、その日は仕事帰りだそうで、外で作業をする仕事なので普段は作業着とスニーカーなのだ。

ついでに外見については、私より少し背が高いが多分高身長というほどでもなく、黒の四角いメガネをかけ、年相応にぽっちゃりしている。

年齢的には40代への過渡期。

少年期、青年期、そして中年期へ向けて第三次形態に入ろうとしているわけだ。

普通に普通の30代半ばの男性が、特に体を鍛えているわけでもなく、食生活に気を配るわけでもなく、仕事終わりに松屋にでも行って飯を食らい、間食で菓子パンとか(知らんけど)食べてたら、まあ、そうなるだろ、という体形である。

 

しかしもともと外見も知っているし、この会社の人の私服がお洒落などとは思ってないので、特に幻滅するとかもない。

 

多分、めちゃ標準的な普通の男性と、普通に普通の会話をしながら、会社繋がりという普通に普通なきっかけで食事をしている。

 

去年、アプリをやった時は、「アプリで出会った」ということがネックで目の前の男性を好きになれない気がしていた。普通の男性でいいのに、普通に出会えれば…と。

 

で、今回まさにそうした「普通のキッカケ」で「普通の男性」と食事をしているのだ。

男性の方は、一応私を落とす(?)つもりで食事に誘っているので、私に対して好きなタイプの男性などを聞いてくるのだった。

それもその質問をする際には、すごく溜めがあって、というか聞くのがはばかるとでも言いたげに緊張しながら質問してきた。ものすごい間があって、緊張感が伝わってきた。

が、やっぱり私は特に相手の男性に恋愛的な関心は持っていなかったので「うーん、ホモソーシャルどっぷりな男性じゃない人?ですかね?」とかサバサバした感じで答えてしまう。

当然、ホモソーシャルという言葉を知らないわけだが、個人的にはこのワードがいいリトマス試験紙かなと思っている。(そしてこれがリトマス紙である以上私はきっと誰ともつき合えない)

 

コースなので食べ終えたら店を出る。

そんでもって、男性の方が全額払うというデートはアプリできっちり割り勘してきた私には初。

申し訳ないのと、1軒目で帰るといかにも脈なしなので(いや、ないんだけど)2軒目どっか行きますか?今度は私が出しますと提案する。

適当なバー、ではなく、以前出版社に勤める男性に連れられて入った村上春樹の本に出てくるジャズバーに入ることにした。

記憶では雑多なカフェっぽい感じで堅苦しくなかったのでちょうどいいと思ったのだ。

「ここ、村上春樹の本に出てくるらしいですよ」とか言ってみるとノルウェイの森だけ読んだことがあるそうだ。意外。でも好きにならない。

 

そこでもしばらく話をするわけだけど、彼は先ほどの店で私の好きなタイプを聞いてしまったので、もう質問は打ち止めではないだろうか?と思ったが、私が最長つき合った年数を聞かれ、1年半でふられる側だと答え(まったく、恋愛は素晴らしいとか言ってるやつ誰だよ、浮気されて捨てられてるよ)、同じ質問を聞きかえすと、かなり長いものから、3年、半年(←アプリっぽくない?)など、やはり変にDVとかモラハラとかではなく普通に普通のいい人なのではないか?という感じだった。

きっと平均的な交際人数で、平均的な年数付き合って、30半ばという普通なら結婚しているタイミングで相手を切らしたから声をかけてきたのだろうか。

 

2杯飲んでいい時間になったので帰ることにした。ここでも全額出してくれた。

 

そして駅までの道すがら、次にまたどこかに行こうという話になって、「行きません」とは言えないので応じる流れになった。

でも、特に何も思わなかったし「普通のいい人」という印象意外なかったので、あえてお礼ラインはしなかった。

しかしラインが来てしまったので、また行きましょうなどと言って年末を迎えている。

 

私達は嘘つきである。

私達というのは主語がデカくなる。

いやでも、私達は嘘つきだと言いたい。

よく言う「普通の人でいいのに」は大嘘である。実際に見た目も中身も普通の男性とデートをしても、全く何も思わない。付き合ってみたいとも、1回セックスぐらいはしてみるか、とも思わない。

そこでふと思うのだった。これがもし、有名大学卒だったらどうだろう?ソフバン本社とか出版社とかだったらどうだろう?私はきっと好きになったんではないか?

だってそんなエリートから選ばれる自分が好きだもん。

それに少なくとも、私がここ最近知り合った「可愛い女の子達」は高学歴彼氏/夫を連れている。

羨ましくないわけがないじゃないか。私も可愛い女の子達と同じものが持ちたい。

正直そう思っている。

前途多難。

若くも美人でもなく、恋愛テクに長けた肉食系女子でもない。

そういうわけで、来年も一人強く生きような、と思うのでした。

私以外みんな人間

昨日人の集まる場所で、あ、この人彼女なのかな?て人がいて、男性は彼女が来るとちょっとはしゃいでじゃれる感じで話しかけ、その後移動した二人は彼女がトイレにでも行ってるようで彼氏がトートバックを肩にかけ待っていた。人間たちはこうした安心感と信頼の間に身を置いているらしいことを知った。

----------------------------

土曜日、たまに行くバンドを見るためにライブハウスに行った。

新宿の初めて行くところで、猥雑な新宿らしい通りを抜けた場所にあってなかなかいい場所だった。

小さなライブハウスで、売れっ子でもないので出演者は他のバンドの演奏の時に観ていたりするが、そんなに好みでもなく知り合いでもないバンドの時は観ないで外で煙草を吸っていたり、知り合いと談笑していたりする。

テイストの違うバンドの時に、知人でもあるバンドメンバーが彼氏らしき人と外に出て行くのを見た。

クリスマス前の週末だからなのだろうか、その知人も、そして冒頭に書いた男性(実はそのバンドメンバーの男性)も、クリスマスらしく表現するなら「恋人」を携えている。

自主企画とかレコ発でもない限り、いつもなら見かけることがない気がするが。

 

で、先に書いた男性は私の目の前の椅子によりかかっていて、そこにロングコートにベレー帽、丸メガネ、トートバッグというサブカルらしいいで立ちの女性がやってきて、彼女が来た途端彼の顔は無邪気に輝いていた。

これはよく言う「素の表情」というやつだろう。

よく、こういう女はモテない、みたいな例に出てくるような格好の、ゆるふわ女子らしい雰囲気ではない女性、そういう女性をきちんと好きな男性というのは一定数いるのだから、世間のモテなんちゃらはアテにはならない。

 

バンドとして出る演者が素みたいな表情を、この彼らにとって社会である、この公的な場で、うっかり出したりはしない。

 

何度も見ているバンドだが、彼も通常はそんなテンションでいたことはなかったと思う。

しかし、彼女なのだろうと分かるくらいには、(音が大きいので)至近距離で耳元で話しかけ、おそらく無意識でそっと背中のあたりに手を添えてあった。

そしてちょっとじゃれるように、よくなついている子供のように無邪気にまとわりついていた。

さっきまでの社会的な存在から、一個人に変わった瞬間である。

 

その後2人は場所を移動し、後方で彼はさっき彼女がもっていたトートバッグを肩にかけ立っていた。

きっとトイレにでも行ったのだろう、ほら、ライブハウスのトイレは狭いから。カバンを掛けるフックが付いていないところもざらにあるし、荷物はなるべくないほうがいい。

 

そうなのだ、人間たちはこうした安心感と信頼の間に身を置いているらしいのだ。

 

正直、今日ここに来るまで、というか今週はやけに気分が落ち込んでいた。

PMSなのか?と思っていたが生理が始まっても落ち込みと鬱屈は深くなるばかりだった。

そこに来てさらに、人間の信頼と安心の営みを目の当たりにしたら、ますます気分はえぐられる。

 

別に売れているわけではないバンド、彼らにだって平日は普通の仕事がある。

そんな生活でも、ライブに備えて練習をし、パフォーマンスをする生活の、多少の苦労と得難い充実は想像できる。

楽器の技術が少しずつ上達することの面白みも感じることだろう。

私も漫画を描くときに、思った通りのコマが描けたときの喜びなんかは、きっとそれにあたる。

そういう地味な苦労や、ちょっとした喜び、それは私ももってる。

でも、さっきのアレはどうだろう。

「信頼と安心の営み」私にはそれはない。

みんな、面倒な生活の積み重ねや苦労と、ちょっとの充実とプラスして、「素の表情」というのを見せられる信頼で結びついた安心できる相手がいるのだ。

よく言う「楽しさは2倍に、悲しみは2分の1に」というやつだ。

 

で、私は?と思う。

もちろん、カップルとはいえ必ずしも満たされた信頼の中にいるわけではないとか、一人でいる時に感じる孤独より、2人でいるのに感じる孤独の方が孤独、とか、一筋縄ではいかない「知られざる実情」「2人のことは2人しか分からない」というやつがあるのだろう。

 

しかし、少なくともさっきの表情は、幸せと充実に満ち足りていた。

そういうものを見たとき、圧倒的に自分には「その辺」が抜け落ちていることを痛感する。

いくら一人の時間を楽しめるのが大人、とか、他人に合わせるのが面倒なら孤独を受け入れるべき、とか、自由には代償が伴う、とか、自分を律する冷静な言葉を並べてみても、私には圧倒的にアレらが欠けているのだ、という欠落感はやはり埋められない。

 

辛いことや悲しいことなんかを、気安く友達には打ち明けたくない「本心」と言われるようなやつなんかを、あなた方はその相手に話して、理解され、初めは他人だった彼/彼女に、今は深く理解されているという安心を実感し、少し救われたりするんでしょう?

 

そういう時は大抵、どれだけつらかろうが、悲しかろうが、私は一人で受け止めて、一人で抱えて、一人で処理している。だから、私の方が偉い。私の方がすごい、と言ってみたりする。

だからエルトン・ジョンの映画「ロケットマン」が好きだったりする。

 

じゃあそこで誰かに、そのすごさを認めて「頑張ってますね」「あなたほどすごい人はいない」「自分で自分を認めてあげていいんだよ?」とか言ってほしいかというとそれは全然違っていて、お前なんかにわかってたまるか、と思う。

お前ごときが知った口聞くなよ、なんの足しにもなんねえよ、という怒りがわいてくるので、これはまあ、まだ生命力が力強く残っている事であって、多分いいことなのだろう。

しかし何の解決にもならないが。

 

しかし、こんなにも「なんか自分だけ損してる」という気分になるのは、おそらく自由に生きていない証拠でもあると思う。

もちろん、誰しも自由には生ききれていないだろうが、どこかでちゃんとしようとして自分に制約をかけているから、嫌な気分が深くなる、という説はどうだろう。

例えば私はライブハウスに来た時に、別にそんな義理はないのに、なぜだか知人であるバンドが出るからこそちゃんと全部観ないと、などと思っていて、意識だけはこの「中の人」みたいになっているのだ。

だから好みじゃなくても、ちょっとたるくても、椅子にもたれたりもするけど、顔はステージに向けている。まあ、狭いライブハウスで他にすることもないし行く場所もないからだが。

しかし、演者である当の本人たちは、(いろいろやることもあるので)別にそんな律義にやっていない。

私は真面目にちゃんとしているのに、別に報われていない。

そういう気分が余計に足を引っ張り、暗い気持ちに拍車をかけている気がする。

そして、それは単にこうした出来事に留まらず、人生全般に、どことなく「ちゃんとやってるのに」「真面目にやっているのに」という報われていない感を増幅しているのかもしれない。

努力だってやり方が間違っていれば効果はない、それは大人になる過程で知っていたつもりだったし、ここ最近の私は、これといって努力を重ねた記憶もない。

 

他人を羨んだり、誤った恨みを持たないためにも、やっぱり好きに自由に生きるのがいいのかもしれない。

もうちょっと好きなことをやろう、とこれを書きながら思った次第である。

阿佐ヶ谷姉妹いいよね

去年アプリで会って何度か食事に行った男性、阿佐ヶ谷姉妹が苦手と言っていた。

理由は「なんか、ぞわぞわする…」とのこと。

ちなみに彼はエスパー伊東が好きらしく、理由としては「あれで芸が成立するんだ…ということに関心した」らしい。

阿佐ヶ谷姉妹って、人を貶したり晒したりする嫌な笑いをやらないし、言葉遣いも丁寧で、おばさんネタをやっているけどあまり自虐的にも見えないしかなり好きな方である。

で、阿佐ヶ谷姉妹が苦手って、そして「ぞわぞわする…」という表現から察するに生理的に無理という意味合いかと思ったんだけど、それってつまり、おばさん全体が生理的に無理という意味では?と解釈した。

ちなみに彼の好きな有名人だと最近はPerfumeと言っていた。

 

さらに突き詰めて考えると、

人を傷つけない優しい笑いの芸人阿佐ヶ谷姉妹→おばさんに寄せている芸風→ぞわぞわする…

それって、翻訳すると人がよくても女性性の低い女性は生理的に無理、なのでは?

おじさんでちょっと貧乏くさいエスパー伊東を支持するなら、男性であれば芸風が生理的にどうとか関係ないわけだし。

女性で、おばアピールしてる人が無理なんだよね?それもテレビの中っていう現実には関りがない人でも「ぞわぞわする」ってことは、現実世界で単に自分と無関係に存在している中高年女性が生理的に無理なのでは?

って思ったんだよな。

そりゃ職場にいるおせっかい50代女上司とか疎ましく感じたけど、それは年齢や性別よりも「おせっかい」という圧に対する不快感だったし。

 

でも、阿佐ヶ谷姉妹に対してはそうした圧や不快感を感じない身としては、もう「女性」で「おばさん」で「わかりやすい女性性」が低い人は生理的に無理、って言っているように感じた。

おそらく、彼としては年をとってもケアに手を抜かないきれいなご婦人とかは「ぞわぞわ」しないんだろうけど、それってつまり、自分から見て女性として認識できる女性はセーフで、自分から見て女性と思えない女性はアウト(たとえ彼女や妻でない他人でも)ってことではないだろうか。

 

ここまでひっかかるのは、おそらく彼の容姿も関係していて、彼は人に不快感を与えないようなセンスのいいお洒落をやるタイプと見えたことが、逆に無機質で冷たい感じを強めた気もする。

無印のパリッとしすぎていないシャツ、細身のデニム、アイボリーのコンバース、きっとSHIPSとかジャーナルスタンダードで買ったと思われるネイビーのハーフコート、派手な物や個性の強いものは身に着けず、誰が見ても不快にならないように配慮されている。

言動もそんな感じで、常に失言をしないように気を付けて控え目な発言が多く、爆笑もしないし熱弁とか自分語りもしない、服装においても会話においても代表的なNG行動は一切みられなかった。

(数回しか会っていないこちらに合わせて配慮に配慮を重ねた結果かもしれないが)

 

そんな風に、自分の見せ方を全方位的に配慮し、外部に与える不快感を徹底的に排除した人物だからこそ、彼にとっては「本来」排除するべき「老い」をそのままにしている(ようにみえる)阿佐ヶ谷姉妹が理解不能だったのかもしれない。

あってはならない「老い」とか「欠点としてカバーするべき」おばさんっぽさが、エスパー伊東ならまだしも、女性が、それらを「売り」にするなんて信じられない…ということなのだろうか。

 

ちなみに彼の好きなものは主に音楽、特に洋楽で、日本のインディーズバンドでもヴァージンスーサイズっぽいMVのバンドをすすめてきたことがある。

おそらくは、私が好きそうなものに該当すると踏んで、好みに配慮してチョイスしてくれたのかもしれない。

ついでに、その日いた店も、新宿の地下にあるクラフトビールの店で、落ち着いた照明とステーキやバーニャカウダなどのメニュー、周囲は30歳前後の客という感じで、うるさい学生集団や、酔っぱらったリーマン集団などの気配もなく、社会人がゆったりと談笑しているような空間だった。

 

そうしたことから総合的に考えると、多分彼にとっては、ノイズのない、綻びのない、適度に都会的で洗練され、堅苦しさは無くてもきちんとしたものが、安心できるし好きなんだろうな、と思った。

なんというか、誰に向けてどんな楽しみ方をするのかが、はっきりわかるものが好きなのでは。

個人的には、服装や店のチョイス、なんなら趣味のチョイスまで、他人への不快感を徹底的に排除した人物が、多くの人から「いい人」認定されているであろう芸人に対して、否定的である点が「読めてない」と感じひっかかったが。

 

とりあえず、そうした自分の美意識から外れている阿佐ヶ谷姉妹は、楽しみ方がわからなくて不安になるのかもしれない。

 

もう一切の関わりがなのでどうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。

 

あと、彼に関してではないが、時折いる化粧っけがなく愛想もあまりない女性に対して、不快感とかネガティブな興味を隠さない(隠しきれてない)男性っているけど、例としては前の会社にいた(後輩女性にセクハラしていた)同じ部署の先輩であるが、その理由を考えたので記しておく。

これはヘウレーカで「可愛いは報酬である」と何かの研究者が言っていたことで思いついた仮説なのだが、一部の男性にとっては、女性は自分に報酬をくれるのが当たり前と思っているのではないだろうか。

つまり、自分の性的好奇心を多少なりとも満足させる女性性の高いファッションや容姿をしていて、常に笑顔と優しさを振りまく生物が女であって、それがまずもって大前提なのに、にもかかわらず、スカートで脚を出したり、くびれが分かるトップスを着たり、つやつやの長い髪をなびかせたりしない、さらには義務であるはずの「笑顔」も出し惜しみするなんて!こいつは報酬を出し渋っている!

と、貰えるはずのものが貰えず損をしてクレームを入れたい気分なのではないか。

なんなら、貴社(地味で不愛想な女)の不手際に対して本来ならクレームを入れていいところを、自身の寛大さで入れないでやっている、と思っているのでは。

だからこそそうした女性に対して、単に「苦手な人」として避けて無関心になるのではなく、わざわざ怒りのようなものを表明することが多いのではないだろうか。

だから、おばさんを嫌う(男性が多いように思う)のは、

「お前の勝手で女体を老けさせやがって」なのでは。

女芸人を嫌うのも

「本当ならちょっとエロい目で見れて楽しめる女体を持ってるのに、なんでそれをさせないんだ!」

「お前が勝手に女体に手を入れて女性性を消してダメにしている!」

という、本来なら自分が楽しむために与えらえる可能性があった女体が、他人(正しくは女体の持ち主である女性本人)によって、「勝手に」エロい目でみれないように作り変えられている(お笑いによって)と憤慨するのではないか。

などと考えた。

で、例の男性も、怒りまではいかなくても自ら女性性を消しにかかってる(消してるわけではなく単に本人の趣味とか生まれ持った性質なのだが)存在が不可解でならないのかもしれない。

同じ前提(俺:女性性の高い女性が好き・女:女性性の高い格好と態度で好かれたい)を共有していない、謎の存在は不可解で奇妙なのかもしれない。

 

 

しかし、長々と書いたが、私が最も引っかかったのは「なんか、ぞわぞわする…」という子供のような回答である。

いや、引っかかっちゃいけない、よっぽどの“脳内言語化オタク”でもない限り、これが普通の感想なのだ。

ぼくイエ読み途中

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読み始めた。

まだ最初の数十ページであるが読みやすくリアルな外国文化の話は面白い。

5時に夢中の誰かのコーナーで紹介されていて気になっていたが人気のようなので購入したのだった。

 

イギリスに住む白人と日本人のハーフの少年の生活を日本人母が書いたもので、カトリックの水準高い小学校に通っていた少年が、やや荒れた地域に属する家から近い、公立のやや荒れた中学に進んだところから書かれている。

 

この本を読んで早くも印象的だったのが、イギリスでは演劇の授業が科目として用意されており、それはコミュニケーション能力を高める目的であるらしいこと。

確かに、アメリカのドラマでも学生たち、それも日本の「演劇部」などに見られる声優志望のちょっとアニオタチックな学生ではないチア部のような学生が、主役を得ようと頑張る姿を見たことがあるが、どうやら海外(っていってもイギリスとアメリカしか例が出ないが)では演劇はこんなにもしっかりと認知されているらしい。

そういえば、「フラニーとゾーイー」でも「ロリータ」でも、学校で結構気合い入れて「舞台」をやるエピソードがあったっけ。

ちなみに、「ぼくイエ」曰く、演じることによって他社の考えを理解し言葉にする能力が身につくという考え方に基づいているらしい。

さらには、幼稚園(保育園だったかも)の頃から自分の感情を把握し人に伝える学習を行うとか。

というのも、低所得者の住む地域にある学校などは、家庭環境の良くない家に育った子供もおり、無表情だったり感情を表現できないことがあるらしい。

その場合、同様に他人の感情を読み取る能力が身につかないことがあるらしく、幼稚園では怒った顔や泣いた顔から感情を読み取る学習を行うそうだ。

 

それを読んでびっくりした。

昨日もアメリカのティーンの映画を観ていたが、たいがいアメリカのティーンはディベートとホームパーティーをやっており、私はよくある外国の風景として眺めてきたが、やはり本来、寧ろ本来は、そうやって自分の感情や考えを整理してアウトプットすることは、技術として誰かが教え学習して方法を身に着けていくものなのだ。

ちなみに、何かの本でアメリカでは子供の頃に相手の考えを否定せず自分の考えを伝える授業を行うと目にしたが、アメリカ、イギリス、のみならず広く欧米ではそうした教育が行われてるのではないだろうか。

そうやって、感情のまとめ方、伝え方を正しく身に着けていると思われる人と、例えば私とではきっと雲泥の差であろう。

きっと誰もが自分が何をどう感じたかを自分でしっかりと把握し、正しく相手に伝えられるのだから。

それならばきっと、以前にもブログで書いたが、建設的な相互理解に向けて質の高いコミュニケーションが図られているのではないだろうか。

もちろん、詭弁で面倒をすり抜けるという不誠実な方向にも活かされるとは思うが、多くが率直な(ずけずけ言いたいことを言うという意味ではなく)コミュニケーションをとっているのだろう。

で、私は正しい伝え方など知る由もなく、このまま解像度の低いコミュニケーションを繰り返して死んでいくのだろうと、ちょっと遠い目をした。

手ごたえのない会話

別に今に始まったわけじゃないし、今までも期待したことがないが、例えば会社の先輩と愚痴を言う時に、相手の愚痴に乗ってより踏み込んだ愚痴や上司への指摘を言うと「ああ~はは」と言ってふわんとした返しをされ、肩透かしを食らうことがある。

しかし入社1年半の会社で、数か月だけ先輩である隣のデスクの年上女性との関係は1年もたたない、そんな関係性も薄くてしかも誰かに聞かれる危険性のあるオフィスでの愚痴、というセンシティブイシューに関してはあまり派手に言及しない方が身の為でもある。

そのため、オフィスでの会話にはそこまで求めないが、しかし似たようなことはオフィス以外でもよくある。

 

こんな話を持ち出すのは、最近ドイツに留学している社会人(30代女性)のツイートにて、「ドイツ語もそうだが思考様式や態度を学んでいる」と書いてあり、改めて自分や周囲のコミュニケーション方式について考えたからである。

 

留学中のその人は、語学が堪能らしく翻訳の仕事をしており、会社にも留学の許可をもらって現在に至るようであった。

仕事もパソコンがあれば海外でできるし、留学はダイレクトに彼女のスキルにもなるし、たしかに留学を妨げる要素はなく、社会人学習というスタイルも欧米的な価値観を輸入しているように感じる。

仕事柄、こうしたことは珍しくない環境にいるのだろう。正直こうしたライフスタイルが可視化されると、うらやましい気持ちと自分のこれまで歩んだ人生を丸ごと否定したくなる気持ちに駆られることもあるが、今回はそれは置いておく。

 

そこで彼女は宿題などを出されるのだが、たいていが記述式でドイツ語で書くのはもちろん、「○○の理由と自国との比較」「右利きと左利き」など、普段考えたこともないようなテーマであり、外国語で記述する以上に普段使わない思考力を試されている点にキツさを感じているとの事だった。

 

また、留学において自身の行動様式の変化についても綴っていた。

例えば、「むやみに笑わなくなった」ことについては、日本では何かと自己防衛にも役立つ「笑顔」だが、ここでは男性に対するアプローチと誤解されたり馬鹿だと思われたりマイナスの面が多く、電車に乗ってあたりを見てもニコニコしている人などいないとのことであった。

 

そういえば、マツコ有吉のかりそめ天国で、三四郎の小宮が外国人女性とデートをする下衆な企画があるのだが(楽しく拝見しています)、小宮は毎回スリーサイズを聞くなど失礼をかまし、はっきり失礼さを指摘されるなど外国人女性の反応からは新鮮さを感じることも多く面白い。

その際、ロシア人女性だったか失念したが、彼女が「ロシアの女性は日本みたいに不必要に笑わないの」ということを言っていた。

これはつまり、彼女は日本に来て、日本人(おそらく主に女性)が無意味に笑うことに対して思うところがあったことをうかがわせる。

 

話は戻って何度目かの留学となる彼女は、同じく留学生である他の日本人を見てこうも述べている。

「クラスの日本人を見ていても、自分が理解できない時等々に誤魔化すように笑うことがあり、私もこうだったんだな、と思った。」

日本では普段は笑って会話の終わりをごまかすことがあると気づいたと付け加え、「周り(おそらく現地の学生や他国からの留学生だろうか)は本当はきちんとした会話を求めている」とも書いていた。

ツイートでは、日本の曖昧な会話そのものを否定はしないとも書いており、ただここではこうした行動様式を知ることも知識だろうと、留学の一幕を締めくくった。

ドイツはたった一人でも反対意見を言える教育をする、と聞いたことがある。

だからこその態度であり、日本以外の外国全てがこうした「きちんとした会話」を求めているとは限らないし、しかも高等教育を進んで受ける、それもおそらく文学部や国際コミュニケーション学科だとか、その手の学部かもしれない、だからこその感覚で、もしかするとドイツ内でも独特の価値観を持っている可能性も否定できない。

しかし、私は一連のツイートを非常に興味深く読んだ。

 

 

最近、(あまり意味をなしていない)打ち合わせで、編集さんに「理想の夫婦っていますか?」と聞かれ、パッと思いつかず、しかし何とかひねり出した人がモーリーさん夫婦だった。

単に最近休日の昼間のテレビでこの夫婦を取材しており、私もツイッターをフォローしていて元々モーリーさんには興味があったので出てきた人物だったが、何となく自分で言ってみると理想的な関係に思えた。

理由も聞かれたので、その番組で観た限りでは、仕事の相談を妻にしたり、または仕事柄国際情勢や海外のニュースに触れる機会があるため、そうしたニュースを日常会話の中で「○○って最近あるじゃない?あれってさあ、××が原因だから今後は△△になると思うんだよね」など、(残念ながら)私が聞いても何を言っているかわからないテーマの会話をされるのだが、つまり何が言いたいかというと、日常の事務的な会話だけでなく、直接生活にはかかわらないような外の物事に対する意見交換が当たり前のようになされていることが理想的と感じたのだった。(ちなみにモーリーさんの奥様は相槌を打ったり、仕事の相談であればもっとこうした方が伝わる、など視聴者的アドバイスを添えたりしていた)

私の口からふと出た言葉として「パートナー観があるというか」がある。

つまり、対等な対話者として認識し合って生きているということであろうか。

こうしたことは、改めて誰かに問うてもらわないと気づかなかったりするため、編集さんとは打ち合わせの意味は成していないが、私の啓発には大いに役立っていると言える。ただし編集さんにメリットはないが。

 

その時編集さん曰く、「確かに海外だとイシュー会話(?忘れた)ってよくありますよね、何かテーマを持ってきて話すっていう」と言い、パートナーという認識は、従来の日本の夫婦から想像するに薄いのではないか、という結論に至った。

まあ、私の身近に夫婦がいないため、親世代のやや原始的な社会的機能の一部のような夫婦しか思い浮かばずそうした結論に達したので、現代はパートナーという感覚で家庭を運営している人も多いのかもしれないが。

 

そこでふと思ったのが、これらの(長い)話を総合して考えると、私たちは人間同士のコミュニケーションを曖昧にしてきちんとした会話を避け、結果的に一部の(もしかしたら大半の)コミュニケーションへの欲求不満、満足度の低下、諦念を誘発しているのではないか、と思ったのだった。

主語が大きくなるとネットでバッシングされるツイートを見ることがあるため、「私たち」とは、私や、例に出した会社の先輩、私の知りえる友人、知人、マッチングアプリで会った人などにとどめる。

 

曖昧にするのは、衝突を避けるとか不和や軋轢を避けストレスを軽減する目的だが、そもそも意見の相違をストレスと感じるらしいこと、親しい友人でさえそれを避けようとする習性があること、そのために曖昧に笑える話のほうが歓迎されることが理由として考えられる。

が、それはそもそも、冒頭にあったドイツの記述式のテストにあるように、私たちがあるイシューに対して考察すること、考えを持つこと、ささいなことにも「○○観」をもつことが訓練されていない、そうした教育がなされていないことに起因するのではないかと感じたのだ。

 

もちろんそれは私であり、私自身もきっとヨーロッパなどの人に比べれば意見を持っておらずクリアにする努力もしていない。しかし同時にそんな自分にも周囲にも不満と、最近は諦念も感じている。

 

おそらく、多少創作や表現、みたいなものに手を出している人はイシューに対する価値観の言語化は好んでいる、というか自然に行っている気がする。

例えば、久々に会った友人(イラストレーターを目指していたがウェブデザインの仕事に落ち着いた)に対してホワイトウォッシュについての話をしたら、そこからポンポンとラリーが続き、最終的には友人いわく「でも最近の映画の有色人種をヒロインに持ってくる制度には多少辟易している」と締めくくっていた。ホワイトウォッシュからポリコレへ広がったことと、友人という信頼関係があるからこそ、一般的には言及しづらい人種の話題とポリコレ批評ができたこと、はっきりとした答えのない問題について話ができたことなどとても楽しく、充実したお喋りだったと感じた。

となると当然「パートナー」とかいうものにソレを求めてしまうようになるが、その点においてもいろいろな理由(そんな人は母数が少なく私より素敵な女性を既に得ている)から絶望しているので今回は置いておく。

 

そういえば、高校・大学と身近に一人はイシュー会話をする友人がいたため気づかなかったが、あるテーマを持ち出したり、自身の○○観を例にとってみたり、という会話の方式をとる人は一部だったのかもしれない。

 

以前外資系の会社に勤めており、社長がヨーロッパに暮らすアメリカ人だったのだが、忘年会などに参加してもさして楽しそうではなかった。

営業さんなど気を使ってお酒を勧めたり、話しかけたりしていたが、誰かがぼそっと「まあ、社長はあんまりこういう席で仕事の話するの好きじゃないから(だからあまりノリがよくない)」とフォローしていたが、仕事の話が好きではないというより、「会話観」が合っていなかったのかもしれない、などと思ってみたりした。

私たちは社長に気を使って、A社との取引上手くいってよかったですよね、とか今度のB社のプレゼンはこうしたいですね、とか前向きな仕事の話をするが、もしかすると退屈なのかもしれない。(私は仕事に興味がないので退屈だが)

 

しかし、多くの人にとってはイシュー会話の方がややこしく面倒だと思われる。

だからこそ、飲み会は「ノリ」が大事だし「みんなで楽しく」とはお茶の間バラエティのようにネタ出来な会話で笑ったり、仕事上必要性のある具体的な出来事の共有や、日常の近況を傾聴しリアクションすることであろう。

そうした様式美が、友人関係や、職場の愚痴を言い合える程度の距離感の同僚にも染み付いていて、言っている意味ががよく分からなくなったり、深刻なラインに踏み込んできそうになったら「ああ~はは」と笑うのであろう。

 

しかし同時に楽でもある。

真剣に「きちんとした会話」をしていたら、ちょっとした冗談を咎められたり、私の怠惰な考えや行動も指摘されかねず、それはそれで耳が痛い。

相手が「それは違う、あなたは間違っている」という代わりに「ああ~はは」と言ってる可能性は高い。それが同時に、手ごたえのない会話となっているが、心がざわつく指摘や軋轢から救われてもいる。

しかしそのために、私たちは、友人でさえ、「あはは」と曖昧に笑う裏で、本心は違うことを思っているのではという不安を持っており、少しずつ不信を募らせているのではないだろうか。