日記

日記です

竜飛岬、曇り空で北海道は見えない

たしか去年の夏家族で竜飛岬に行った。

私は寺山修司記念館に行きたかったのだけど、結局竜飛岬になった。

夏に帰る前、いつものように母から「今年の旅行どこ行きたい」とメールがあり、毎年のことながら青森県に車で行くということだったので、最近興味を持っていた寺山修司記念館を提案したのだったが、夏に実家に帰ると、竜飛岬に行ってその日泊るホテルに車で行くには時間的に行けない、とあっさり言われあっさり却下となった。

当然悪びれる風もない。

子供の頃からわりと私の意見は無視される、と思っているので、不満ながらも何かもうどうでもよくなって車に乗った。

(そして年齢的には私の方が親に温泉旅行をプレゼントするべきなんだろうし)

 

一人っ子のあるある、みたいなのに「家族旅行がとにかくつまらない」という一文があった気がするが、全くその通りである。

言われるまで気が付かなかったけど、もしかして、みんな家族旅行って楽しいのか。

大人になる以前の私が知っている旅行は、基本的に家族旅行だけだったから、家族旅行がつまらない=旅行ってたいして面白くない、であり、大人になっても旅行に行きたいという気持ちにあまりならない。

いつも車でいくのだけど、父親はAMラジオをかけるし、私が持ってきたCDは1周再生すると、「はい、おわったよ」と返してくる。CDをリピートで永遠にかけつづけるという概念がないらしいし、CDをかけていても結局窓を開けると音がほとんど聞こえないし、家族も私が好んで持ってきた音楽には飽き飽きしている、という空気があって面白くない。そんなわけで、私はいつも車に乗るといつのまにか寝てしまい、途中道の駅でトイレに寄り、屋台にある餅を焼いたやつとか、アイスとかを「食べたい!」と言っても「ん~いいっ、やめよ、おにぎりあるし」と却下される。

それは母の性格的に、数百円の安ものの美味しくない(私は美味しいのだけど)価値の無いものにお金を使うくらいなら、旅館の和食をもう少し豪華にしたいということなのだろうけど、旅のテンションで非日常を楽しんじゃう、という醍醐味は??と思う。

そして、特に田舎の観光地というものはどこも同じで、広い駐車場に全国各地の車のナンバーが並び、ボンネットが日差しを照り返して眩しく暑く、人ごみと行列、大したことのない歴史的建造物かなんかの料金を払い一通り建物を歩き回る、けど、過去に観たそれらを一つ一つ記憶の中で区別することは難しく、思い出すのはどれも和風、木目の床、矢印、急な階段、展望台から田舎町を見下ろすけどそれがなに?という感覚だけである。

ちなみに、これに関しては父も同じようで、私以上に興味を持たず(それも、日曜の時代劇を見るのに城に行っても反応が薄い)すたすた歩いてとりあえず一周したらタバコを吸って待っている、あるいは、俺はいかなくていいと車の中で寝て待つ、というくらい徹底して旅行に興味がない。

(こういう姿を見ると、夫婦ってなんなんだろう、結婚って全然面白くないじゃんと思う)

ちなみに、大学の時に友人たちと海外に行ったことがあり、やはり友達と行くからかそれは楽しかったので海外旅行なら行きたい(が、お金も時間もなくてめったに行けない)とよく思う。

 

そんなわけで、これまでの経験から夏の旅行に期待することはまずないし、人は学ぶ生き物なのでもう車にCDなんて持ち込まない。AMラジオでも無音でも関係ない。日焼け対策だけばっちりして寝る準備である。

幸い大人になったので、道の駅でトイレに寄ったあと、ソフトクリームは自分で買い、母が好んで見にいく地元の農産物は子供時代よりは興味を持って見れるようになり、地ビールを勝手に買ったりもできる。(けどあまりお金がないので、上手く親を誘導することが多い)

毎年のことだけど、道中は父が道を間違えて母がキレる、という恒例行事がある。

母が運転すれば間違いないのだけど完全にペーパードライバーで、その代わりに父が運転するのだけど父は道がよくわからない。母は「地図を見ろ」と怒るのだけど父は自分で事前に地図を見て道を頭に入れて、ということをしない。

昔は母が怒るのだから、地図がわからない父が悪いのだろうと思っていたけれど、大人になると父が地図を見る気もないのはなぜか分かる。

自分が行きたいわけでもない場所に行くのだから、そこに行きたい人が道を覚えてどこに行けばいいのか指し示すべきだ、ということだろう。

行きたいわけでもない竜飛岬に行くのに事前に道を調べるなんてできないし、なんなら、車を出して運転をして、という労力を割いてやっているのだからそれ以上を求めないでほしい、というところだろうか。

そういう私も、特に興味のない竜飛岬とやらに、まあ暇だしついて行ってもいいか、くらいの気持ちしかないので、本当に主体性ゼロである。

 

そんなこんなで予定の時間より遅れて竜飛岬についた。

竜飛岬は平日ということもあってか人がおらず、駐車場らしきところには我が家の車が一台。一応せっかくなので階段を上り高台に上って海を見る。

晴れている時は向こう側に北海道が見えるらしい。

いつの間にか曇り空になっていたので、感覚を凝らすと小雨も降ってる。海の向こう側は見えずただ海、青くない日本海。それだけだった。

最低だけど、一人で来た方が雰囲気に浸れて楽しかっただろうな、とか思ったりした。

父はいつものごとく一通り見たら「行くか」という感じでもう移動する準備にとりかかる。私も別に楽しみにしていたわけではないけれど、ここが目的地なのに数分眺めて終わりなの?と思う。予定が詰まっているわけでもないし、結局寺山修司記念館には行かないんだし急ぐ必要もないしすることもない。

母は「コーヒー飲むか」と提案してきた。いつもコンビニコーヒーを買う私は、今日はコーヒーを飲んでいないので大歓迎である。どこか喫茶店にでも行くのかと思いきや、車のバックドアを開け、私が子供の頃から我が家で愛用しているの大きい魔法瓶(ふたがカップになる)を取り出した。

一瞬、え?と思ったけど、母が持参したプラスチックのカップに注がれたコーヒーを飲むとこれがめちゃくちゃいい。

バックドアを屋根に小雨をしのいで飲むコーヒー、一気にキャンプの朝みたいな雰囲気になり、これはフェス用みないな小さな椅子と、民族柄のランチマットがあれば完璧に充実した休日だった。一気に楽しくなった。

ああ、母は本当は人生の楽しみ方のようなものを知っている人なのだ。

こういうPOPEYE的なアウトドアを当然のように実践できる感覚の持ち主なのだ。

でもそれを満喫するには性格が生真面目すぎて、義務を果たすことに時間を使いすぎている。

それにこの感覚をシェアする度量が夫にはない。

父は車の中にいて、座席でコーヒーを飲んでいた。

 

本当は椅子に腰かけて一時間くらいぼーっと過ごしたかったけど、結局一杯サクッと飲んでトイレに寄って出発した。

 

母の子供の頃の思い出話に、父親が妹と自分を海に連れて行ってくれ、そこで魚や貝を取って、持ってきた鍋で調理してお昼ご飯を食べた、というのがあったことを思い出した。

そういえば私も子供の頃に、山に行ってシダが生い茂る森の中を散歩し、手作りのおにぎりを食べ、オタマジャクシを取った。

 

帰り道も、ホテルまでの道筋で父と母が口論になる。一応カーナビがつているのだが、父は操作をいまいち把握していないので、パソコンやスマホの操作に慣れている人なら感覚的に使えそうなものだけど、携帯も持っていない父は、目的地を入力する時の効率的なキーワードさえ編みだせない。

母は地図を指示しながら、こう行ってここまっすぐ行けば出られる、と指示しているが、実は母は典型的な「それ!ちがう!こっち、だかれそれだってそれ、ああ~もう左!ちがう逆!」という指示語から抜け出せない説明下手な人なのだ。(私も子供の頃ずいぶん怒られたけどわざとだったのかもしれない)

こっちから海沿いに行けば出られる、と母は主張し、私は、海が見えるのか、うら寂れた漁村なんて趣があっていいだろうな、と少しテンションが上がった。

なんとかカーナビで目的のホテルを設定し、やっと動き出した。しかし、カーナビはまずは最短ルートをはじき出すので、結局海岸線じゃなく無機質な町の中を通って行くこととなり、曇り空に映えそうな寂れた漁村や青森らしい尖った岩場の日本海は見られなかった。