日記

日記です

シェイプ・オブ・ウォーターは私にとっては排除系の映画だった

シェイプ・オブ・ウォーターを観てきました。

これを見る前に一応、同じギレルモ・デル・トロ監督のパンズ・ラビリンスも観ておいた。

 

映画は面白かったし泣いたりもしたけど、これ、私にとっては“排除系”の映画だった。

排除系なんて言葉いま初めて作ったけど。

 

耳は聞こえるけど言葉が話せいないため手話を使う“孤独な”主人公が、アマゾンの奥地から研究のために運ばれてきた謎の生物と心を通わせる、というか恋愛する映画です。

 

主人公はなんというか監督の趣味なのか、パンズ・ラビリンスの女の子がそのまま大人になったような、純粋で内向的だけど偏見をあまり持たないタイプで、服装とか髪形も含めてこういう人が好きなのかなと思いました。この間ちょうどテレビでやってたパシフィックリムの菊池凜子もそうだけど、ちょっと暗いけど頑張り屋さんというか。

さらに元気のないナウシカ、毒を抜いた弱々しいウェンズデー(アダムス・ファミリー)というか。

あと、童話調の話にみせかけて、血みどろシーンや性描写はガッツを持って取り組んでいた。

 

で、排除系というところですが、なんというか、この映画が誰に向けられているのか、どんな人がどういう風に楽しむのか、それを考えた時、個人的には私はターゲットじゃないな、という感じ。少なくとも私のような人が観ることを想定して作られていない。

だから排除系。

 

これを観て感動する人というのはおそらく、(これまで自分を孤独だと思った時期もあったけど、こうして今は比較的)孤独じゃない、という自覚のある人が、「ああ!孤独な主人公かわいそう!だけどこうして一時でも、異形の生き物と交流して孤独じゃなくなってハッピーだったね!よかったね!感動!あなたのために泣いてあげる!!!!感動してあげる!!!!!!」

という感じ。

映画の方程式としては、私は孤独、彼も孤独(異形だから)、だからこそきっと理解しあえる、だから孤独じゃない今は、だから幸せ。

孤独じゃない=幸せ

孤独=幸せじゃない

という数式の上に成り立っていて、つまり私はある休日に通りすがりの人に「あれ?おひとりですか?ということはつまり孤独・・・つまり、あなたは幸せじゃないですね?」と宣告され、

「うわあ、私ひとりじゃ気づけなかったけど、それ、教えてくれてありがとう!!!」

という感じ。

 

なんつうか、読んだことないけど「夫のちんぽが入らない」も読後こんな気分なのかな。(能町さんがツイッターで、暗に私の低さを指摘してくる作品、こういう話は不幸そうな顔をしてやってくる、と綴っていた)

 

加えて、恋愛以外は愛じゃないです、と通達を受けるような作品でもあった。

 

なんというか、八百万の神みたいな感覚で、私はいろいろなものにちいさな愛情を感じたり、ささやかなものに喜びとか幸せとか見出してきたつもりだったけど、そこにいきなり誰かがやってきて、「あ、それ、愛じゃないから」「あ、それも違っ・・・それ、愛じゃないんです」と、恋愛以外を愛と認めてくれない感じ。

 

確かに、いつも人の話の聞き役になることがほとんどの主人公には、深い話とか共通点とか見つけられる人は少ないだろうし、理解しあえる、という希望を誰かに持ちたいのはよくわかるし、そういう存在がいることは大事だと思う。

だけど、(映画の中の人たちは、結婚していても精神的に孤独という人が目立ったが)観る人は、同じ人間同士で理解しあって非孤独=非不幸という方程式に身を置いている中、その人たちが、声を発せられない主人公とカップリングするのが、同じ人間じゃなく(現段階では)同レベルの意志疎通がままならない謎の生き物、である点を少しも不思議に思わずに「よかったね、イライザ!」と言い切れること自体受け入れられない。

それ、もうイライザのことも、この生物のことも、ちょっと既に低く見てないか?

自分たちが物差しにしてる幸福のレベルには絶対に届かない前提の人と定義して、だからあなたは(その程度で)幸せだね!よかったね!(私らは人間同士恋愛しますけど)みたいな。

 

ただし、ちょっと検索をかけたところ監督は奇妙な物に美しさを見出して蒐集などする人らしいので、人間じゃない異形の生物について一般的な珍獣扱いはしていないと思う。

だからこそ、差別をしない純粋な人達の恋愛として描いたのかもしれないし、かつ、アマゾンでは神として崇められていた謎の生物という設定なので、そうした(異形ではなくむしろ高貴な)生物と相互理解できるのは、声が出なくても美人ではなくても、美しい心の持ち主だ、という童話の教訓的なことを示したのかもしれない。

そういう点では(グロさは置いといて)、偏見や差別をさせない教育という観点で考えても、子供が観るのにもいいのかも。(R指定なんだけどね)

 

ただ、観終わった感想は排除系だった。

それって単にひねくれすぎてるだけ?

 

映画のお気に入りのシーンとしては、悪者であるいつもキャンディを口に放り込む暴力的な上司が、精神的に追い詰められて、人を殺しながらキャンディについて語るシーンが最高によかったな。

この悪役が本当に嫌な奴だ嫌な奴だと思いながら殺されろと願っていたけど、成功していて野心家でお金持ちで、キッチン用品の広告から抜け出たようなマイホームと、絵に描いたような奥様がいて最新のキャデラックを買うのに、いつも食べてるキャンディは、彼曰く「安物だけど子供の頃から慣れ親しんだ味で大好き」とのこと。

最新鋭、最高級の絵に描いたような幸福の型にはまっていながら、普通のキャンディを愛用するアンバランスが、強面も見た目とも合ってないし哀愁もあって最高だった。

 

あとは、このキャンディもエンドロールの文字も、壁の色やキャデラックのカラー「ティール」色も、全体的にブルー、グリーン系で統一されていてよかった。

特にエンドロールはチョコミントが食べたくなった。

あと、いろいろな映画でそうだけど、恋愛を分岐点に主人公の服装に赤が入るようになったりメイクや雰囲気が明るくなる演出は結構好きなんだな。

勝手にふるえてろ」や、ミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」もそういう演出があったな。

 

映画を観終わって私は、ああ、ジブリが観たいと思ってしまった。

頭に浮かんだのはもののけ姫の最後、人間にも山犬にもなれないというサンが、私は森で暮らすと宣言しアシタカと別れるところ。

そういうことだよ。

 

なんかなあ、いろいろ想像できるラストだったけど、あの感じだと今日をタフに生きるためのお守り的な映画にはならなかったな。

 

2018.11.22追記

宇多丸さんのラジオの書き起こしでこの映画を取り上げたのを読んだら、少し見方が変わって怒りがおさまりました。

監督はこういう怪獣が大好きで、昔から、怪獣と女の子の恋愛映画とかも好きだったんだけど、そうした映画はいつも、怪獣が実は人間だったとか、怪獣から人間になって女の子と結ばれるとか、そうしたストーリーばかりなのが気に食わなかったらしい。

つまり、怪獣好きの監督にしてみれば、怪獣が怪獣のままで人間から受け入れられてもいいじゃん!ということ。

今回は、そうした監督の意向というか趣味が生かされて、怪獣が怪獣のままで女性と結ばれる話にしたらしい。

とにかく大事なのは、怪獣が怪獣のままで人から受け入れられること。

そういう主旨なら納得できる内容でした。実際に前代未聞(なのでは?)怪獣との性行為シーンもあるし。