日記

日記です

パーカーのボールペン

パーカーという文具メーカーがイギリスの物だと知ったのはつい最近のことである。

1年前、ロンドン旅行に行くときに持って行ったペンは、大学の研究室の先生が引退する時の集まりで皆に配られたもので、適度に重みがあり、なめらかな金属のシンプルなデザインでPARKERと刻まれていた。

しっかりとしたペンなのだろうと思い、あえてロンドンに持っていたのだ。

だって、初めての一人旅だから、きっとホテルの部屋で旅で感じたことを綴るだろうと思っていたから。(実際は入国の紙を書くとき以外使わなかった)

そういう時に使うペンが、会社でもらったジェルペンじゃいけない。

特別なペンでなけれなと思っていたのだ。

そのペンがイギリスのメーカーだったなんて。何か縁を感じてしまう。

そのペンには、先生からの“贈る言葉”なのか、「積小為大」と刻印してあった。

小さな積み重ねがあってこそ大きなことをなせるのだ、というような意味らしい。

調べると二宮金次郎の言葉らしかった。

二宮金次郎といえば、背中に何か背負って本を読んでいて、小学校の校庭に必ずいる人である。

勤勉の象徴で、先生たちが私たちに「ガリ勉になれよ」という時に使う金次郎。

小学生の模範みたいなイメージがあり、学校と直結したイメージのために、先生や社会がコントロールしやすい、他人にとって都合のいい「いい子ちゃんに」なれ、と言われているような気になる、そんな二宮金次郎である。

しかし、今ざっと調べたところちょっと印象が変わった。

知らなかった。単に勤勉な人、というイメージしかなかった。

当時、農民の子供は農民にしかなれなかった時代に、自らすすんで勉強をして、農民ではなく幕臣になったらしい。国家公務員になって大出世みたいな感じだろうか。

つまりこれは、チャッピーと一緒なのだ。

チャッピーとは、第9地区などの監督ニール・ブロムカンプの映画であり、そこに出てくる人工知能のロボットの名前である。

チャッピーはひょんなことからギャングのカップルの下に暮らすんだけど、そこへ開発者が度々訪ねてきて、子供を育てるようにチャッピーにいろんなことを吸収させようと、キャンバスと絵具などを持ってくる。

しかし、ギャングの方は「ロボットに絵なんか描かせても無駄だろ」という感じ。

それを言われて消沈するチャッピーだが、開発者は筆を持たせて「これから君にはたくさんの人が『君にはできない』と言ってくる。でもそんな言葉は無視しろ、描きたければ描けばいい」と絵を描かせるのだ。

ちなみに開発者はインド系で、勤めている会社は白人ばかりである。

もちろん私はこのシーンで泣いた。

観たのは最初に会社を辞めて無職になりたての頃だった。

 

それにしても、二宮金次郎にせよ、チャッピーの開発者にせよ、なぜそんなにもまわりの声に惑わされずに「したいこと」「必要だと思うこと」を完遂できたのだろうか。

 

私だって、「30分近くの歯磨き」とかは、親にうんざりした顔をされながらも気にせず成し遂げたし、虫歯あるくせにバカめむしろこのくらいの歯磨きはお前こそ必要なのだ、とさえ思っていたけど、他のこととなると違う。

親や親戚、周囲やネットで調べたネガティブ情報に影響されて断念したことは多い。

しかし今やすべてが、もっと早くにやっていれば、どっちにしても好きなことをやっていた方がよかった、という後悔の方が多い。

彼らは人生の早い段階でそれに気づいていたのだろうか、あるいは超マイペースだったのだろうか。世の中に一定数、そうした周囲の危惧に無関心な人はいるらしい、鈍感力とかいう言葉も目にしたことがある。

そういう特殊な人だったのかもしれない。

 

研究室の先生はこれまで関わった「先生」という立場の人の中では1番思い出深い人である。

とはいえ大学院に進んだ人に比べれば私なんてほとんど交流はなかったが、大学というところの先生という人たちはこんなにも先生っぽくないのか、と印象付けた人であった。

卒論のテーマは自由で、かつて何かの授業で「いい研究とはなにか」という話で、まだ誰もやっていない研究、と言っていた。

かつて何かの仕事で地方講演に行った際、幼少より優等生だった母は「先生」という生き物が好きなので講演を聞きに行き挨拶にいったそうだ、その時先生は私について「就職先間違えたんじゃないですか?」と言ったとか。

当時金融機関に勤めていた私が、1番言ってほしい言葉だったと思う。

 

「すごいじゃん」

これは当時付き合っていた彼氏が、私が仕事柄扱う商品について聞かれた際、詳細に答えた時の回答である。

これはこういう商品で、こういう違いがある、と答えたら「へえ、すごじゃん」と子供を褒めるように言ったのだった。

おそらく彼氏としては、仕事が嫌いでいつも憂鬱そうにしていた私を励ます目的もあったのだろうと思う。

きっと“仕事がうまくいっていないから仕事が嫌いなのだろう”と思っていたのかもしれない。

しかし、言葉にしなかったものの私はムカついた。

バカにしやがってという気持ちだった。

 

積小為大、クールなPARKERのペンに読みやすいゴシック体で刻まれた積小為大、その横には四葉のクローバーのマークもついている。

正直デザインはダサいが、往々にしてコツコツ積み重ねる努力の姿は地味でダサいものである。

しかも、それが評価されたり形にならなければ、「頑張った」と認めてもらえることも少ない。

 

1月から描きはじめた作品は結局62ページにもなった。

絵を描くだけで1ページに3~4時間かかった。

それが最終選考に残ったという連絡が来たのは4月25日。

生まれて初めての「朗報」だった。

奇しくも、ちょうど1年前の4月25日といえばちょっとしたつまらない挫折があった日。

今、大槻ケンヂの「グミ・チョコレート・パイン」を読んでいるが、ずっとじゃんけんで負けか、勝つとしてもグミでしか進めなかった私が、チ・ヨ・コ・レ・イ・トをキメられるかもしれない。

誰かが熱心に連れの可愛い子に話しかけ気の利いた冗談みたいなものをかます、その真横で常に存在の意味なく笑っていた、みたいな人生。

そんな人生に勝ちたい。(勝ち組になる、とはちょっと違う)

先日、編集担当者との打ち合わせのため講〇社に行ったが、たった1回の社会科見学で終わらせたくない。


ところで、よく「人と違う道を選ぶならば人生を捨てたつもりで取り組まなければならない」みたいなことを聞く。

つまり、夢追いをするなら、安定した生活とか、結婚や出産などは諦めなければならない、などである。

個人的には何を選ぼうとも、生活や結婚、子供みたいなものをないがしろにしなくてもいい社会になれや、と思うがそれは今置いとくとして、私の場合面白いのは、人と同じ道を歩んだはずなのに、結婚の気配もなく、収入もわずかで、あとは年齢とともにゆっくりと衰退していっているところである。

人と違う道、を歩まなくても、生活とか人生を捨てた人とそう大差ない気がするのですが。

そういうわけで最後には、やりたかったことに取り組むしかなくなった。失うものが何もないとわかりきって初めて、である。他にしたいことが特になかった。