日記

日記です

久々の絶望

面白いイベントに行ってきた。

本でもメールでもラインでも、人の言葉尻や文脈から隠された意図を読み取るイベントは面白い。

たいていこうしたイベントはいわゆるサブカル有名人が行うが、今回は主に兼業作家が出演していた。

会社員をしながら本を書いたり連載を持ったりする人たちだ。

 

そうした人たちの物事の読み解き方は自分と通ずるところもあるし、視点や解釈は自分では気づかなかった本質を掘り起こすことが多く非常に面白い。

それと同時に、一発で絶望の淵に叩きつけられるのも事実。

今回の場合は特にのっけからそうだった。

 

なぜなら、出演している兼業作家、つまり普段は会社勤めをする男性の容姿が整っていたから。

 

さっぱりして真面目そうだが堅苦しさはなく、センスの良さを感じさせるラフな格好。

話す内容は自身の仕事の特性をあえて生かした解釈をもって、意外な視点を与えることに成功しており、かつ砕けた言い回しよりもやや硬い言い回しを用いる点には、こうした表立った場に立つときに多少考慮してしまう見栄などを排除した落ち着きを感じさせた。

 

ところで、最近私が気づいた理想のタイプはりゅうちぇるである。

もちろん、カラフルなファッションや意外と美形な顔立ちを指して理想と言ってはいない。もちろん、あのファッションを自分のものとしている点は魅力の一つであるが、主に素敵だと思うところは、自分にも他人にも「こうあるべき」という要求はしないところ、育児にも積極的で「ぺこりんにはイクメンのような(子育てする女性をあえて称賛するような)言葉がないからちょっとかわいそうと思う」などと言えるところ。

つまり、育児は女性がして当たり前という価値観を持っていないことになる。

言い換えれば、世の中にある前提を鵜呑みにせず自分の基準を作り上げ、「らしさ」という規範を飛び越えた人物が理想ということだが、最近目にする便利な言葉としてはホモソーシャルから脱している人が理想なのだと思った。

 

そして、今回のイベントでも、そうしたホモソーシャルから脱した、とまではいかずとも、ホモソーシャル的なコミュニケーションを当たり前としない男性を、肉眼で確認してしまったのである。

 

単純に、本や話す内容が面白いだけでなく、その人の生活スタンスとしてホモソに敏感であろうとしている。

それがしかも、りゅうちぇるみたいに芸能人という、特別で希少ないわば“ありえない”存在ではなく、会社員に存在することを知ってしまったのだ。

 

さらにその相手が、例えば自らの容姿のコンプレックスを抱えいかにも葛藤の痕が見て取れるタイプではなく、例えホモソ云々、話す内容云々を抜きにしても十分に女性からの好意を向けられるようなタイプであったことに絶望したのだ。

容姿に恵まれた男性が、間違っても私の事は選ばない。

 

さらに言えば、そのイベントは男性の男性基準の振る舞いの欠点を指摘するような内容で、それが面白くないのか観客の男性が時折「いや、なんでだよ」「普通そうだろw」などとヤジを飛ばす場面も見られたのだが、そのホモソ感覚どっぷりの男性たちの容姿は、メタボ体系で皮脂の多さを思わせる顔と、しめっぽい髪という組み合わせだった。

 

つまりこの場においては、脱ホモソ的な理想の男性は容姿まで整っており、避けたいと思う思考の持ち主である観客の男性は容姿も整っていなかった。

しかしながら、容姿のいい人の方が性格もいいという研究もあるように、世の中の避けたい価値観で生きる男性の方が容姿も好ましくなく、対して好ましい価値観で生きる男性の方が容姿も整っているのではないか、という不安がよぎったのだ。

なぜ不安が、というと言うまでもなく容姿の整った男性は女性から好かれることが多く、そうした男性の興味関心を自分に向かせることが困難であるから。

ついでに言えば、日常生活に出会いがないうえ、既成概念に疑問を持つような男性とはさらに出会いにくく、今回を例にとればそうした男性は容姿もいい可能性が高いとなると、もう在庫なしであろう。

 

ということを、ただただ見せつけられたイベントだった。

 

帰って本の作者欄を見てみると、某有名大学を卒業してることが分かった。

ああ、またこの大学だ。

音楽をやっている知人はこの大学卒の男性と最近結婚したし、音楽をやっている別の知人は、元カレも今カレもこの大学卒である。

私の身近にいる女性たちは、この大学の男性と付き合いすぎている、と言いたくなるくらい、私には何も起こらないが周囲の人にはこの大学の男性と知り合い好意を傾けられるという現象が起こるらしい。