日記

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手ごたえのない会話

別に今に始まったわけじゃないし、今までも期待したことがないが、例えば会社の先輩と愚痴を言う時に、相手の愚痴に乗ってより踏み込んだ愚痴や上司への指摘を言うと「ああ~はは」と言ってふわんとした返しをされ、肩透かしを食らうことがある。

しかし入社1年半の会社で、数か月だけ先輩である隣のデスクの年上女性との関係は1年もたたない、そんな関係性も薄くてしかも誰かに聞かれる危険性のあるオフィスでの愚痴、というセンシティブイシューに関してはあまり派手に言及しない方が身の為でもある。

そのため、オフィスでの会話にはそこまで求めないが、しかし似たようなことはオフィス以外でもよくある。

 

こんな話を持ち出すのは、最近ドイツに留学している社会人(30代女性)のツイートにて、「ドイツ語もそうだが思考様式や態度を学んでいる」と書いてあり、改めて自分や周囲のコミュニケーション方式について考えたからである。

 

留学中のその人は、語学が堪能らしく翻訳の仕事をしており、会社にも留学の許可をもらって現在に至るようであった。

仕事もパソコンがあれば海外でできるし、留学はダイレクトに彼女のスキルにもなるし、たしかに留学を妨げる要素はなく、社会人学習というスタイルも欧米的な価値観を輸入しているように感じる。

仕事柄、こうしたことは珍しくない環境にいるのだろう。正直こうしたライフスタイルが可視化されると、うらやましい気持ちと自分のこれまで歩んだ人生を丸ごと否定したくなる気持ちに駆られることもあるが、今回はそれは置いておく。

 

そこで彼女は宿題などを出されるのだが、たいていが記述式でドイツ語で書くのはもちろん、「○○の理由と自国との比較」「右利きと左利き」など、普段考えたこともないようなテーマであり、外国語で記述する以上に普段使わない思考力を試されている点にキツさを感じているとの事だった。

 

また、留学において自身の行動様式の変化についても綴っていた。

例えば、「むやみに笑わなくなった」ことについては、日本では何かと自己防衛にも役立つ「笑顔」だが、ここでは男性に対するアプローチと誤解されたり馬鹿だと思われたりマイナスの面が多く、電車に乗ってあたりを見てもニコニコしている人などいないとのことであった。

 

そういえば、マツコ有吉のかりそめ天国で、三四郎の小宮が外国人女性とデートをする下衆な企画があるのだが(楽しく拝見しています)、小宮は毎回スリーサイズを聞くなど失礼をかまし、はっきり失礼さを指摘されるなど外国人女性の反応からは新鮮さを感じることも多く面白い。

その際、ロシア人女性だったか失念したが、彼女が「ロシアの女性は日本みたいに不必要に笑わないの」ということを言っていた。

これはつまり、彼女は日本に来て、日本人(おそらく主に女性)が無意味に笑うことに対して思うところがあったことをうかがわせる。

 

話は戻って何度目かの留学となる彼女は、同じく留学生である他の日本人を見てこうも述べている。

「クラスの日本人を見ていても、自分が理解できない時等々に誤魔化すように笑うことがあり、私もこうだったんだな、と思った。」

日本では普段は笑って会話の終わりをごまかすことがあると気づいたと付け加え、「周り(おそらく現地の学生や他国からの留学生だろうか)は本当はきちんとした会話を求めている」とも書いていた。

ツイートでは、日本の曖昧な会話そのものを否定はしないとも書いており、ただここではこうした行動様式を知ることも知識だろうと、留学の一幕を締めくくった。

ドイツはたった一人でも反対意見を言える教育をする、と聞いたことがある。

だからこその態度であり、日本以外の外国全てがこうした「きちんとした会話」を求めているとは限らないし、しかも高等教育を進んで受ける、それもおそらく文学部や国際コミュニケーション学科だとか、その手の学部かもしれない、だからこその感覚で、もしかするとドイツ内でも独特の価値観を持っている可能性も否定できない。

しかし、私は一連のツイートを非常に興味深く読んだ。

 

 

最近、(あまり意味をなしていない)打ち合わせで、編集さんに「理想の夫婦っていますか?」と聞かれ、パッと思いつかず、しかし何とかひねり出した人がモーリーさん夫婦だった。

単に最近休日の昼間のテレビでこの夫婦を取材しており、私もツイッターをフォローしていて元々モーリーさんには興味があったので出てきた人物だったが、何となく自分で言ってみると理想的な関係に思えた。

理由も聞かれたので、その番組で観た限りでは、仕事の相談を妻にしたり、または仕事柄国際情勢や海外のニュースに触れる機会があるため、そうしたニュースを日常会話の中で「○○って最近あるじゃない?あれってさあ、××が原因だから今後は△△になると思うんだよね」など、(残念ながら)私が聞いても何を言っているかわからないテーマの会話をされるのだが、つまり何が言いたいかというと、日常の事務的な会話だけでなく、直接生活にはかかわらないような外の物事に対する意見交換が当たり前のようになされていることが理想的と感じたのだった。(ちなみにモーリーさんの奥様は相槌を打ったり、仕事の相談であればもっとこうした方が伝わる、など視聴者的アドバイスを添えたりしていた)

私の口からふと出た言葉として「パートナー観があるというか」がある。

つまり、対等な対話者として認識し合って生きているということであろうか。

こうしたことは、改めて誰かに問うてもらわないと気づかなかったりするため、編集さんとは打ち合わせの意味は成していないが、私の啓発には大いに役立っていると言える。ただし編集さんにメリットはないが。

 

その時編集さん曰く、「確かに海外だとイシュー会話(?忘れた)ってよくありますよね、何かテーマを持ってきて話すっていう」と言い、パートナーという認識は、従来の日本の夫婦から想像するに薄いのではないか、という結論に至った。

まあ、私の身近に夫婦がいないため、親世代のやや原始的な社会的機能の一部のような夫婦しか思い浮かばずそうした結論に達したので、現代はパートナーという感覚で家庭を運営している人も多いのかもしれないが。

 

そこでふと思ったのが、これらの(長い)話を総合して考えると、私たちは人間同士のコミュニケーションを曖昧にしてきちんとした会話を避け、結果的に一部の(もしかしたら大半の)コミュニケーションへの欲求不満、満足度の低下、諦念を誘発しているのではないか、と思ったのだった。

主語が大きくなるとネットでバッシングされるツイートを見ることがあるため、「私たち」とは、私や、例に出した会社の先輩、私の知りえる友人、知人、マッチングアプリで会った人などにとどめる。

 

曖昧にするのは、衝突を避けるとか不和や軋轢を避けストレスを軽減する目的だが、そもそも意見の相違をストレスと感じるらしいこと、親しい友人でさえそれを避けようとする習性があること、そのために曖昧に笑える話のほうが歓迎されることが理由として考えられる。

が、それはそもそも、冒頭にあったドイツの記述式のテストにあるように、私たちがあるイシューに対して考察すること、考えを持つこと、ささいなことにも「○○観」をもつことが訓練されていない、そうした教育がなされていないことに起因するのではないかと感じたのだ。

 

もちろんそれは私であり、私自身もきっとヨーロッパなどの人に比べれば意見を持っておらずクリアにする努力もしていない。しかし同時にそんな自分にも周囲にも不満と、最近は諦念も感じている。

 

おそらく、多少創作や表現、みたいなものに手を出している人はイシューに対する価値観の言語化は好んでいる、というか自然に行っている気がする。

例えば、久々に会った友人(イラストレーターを目指していたがウェブデザインの仕事に落ち着いた)に対してホワイトウォッシュについての話をしたら、そこからポンポンとラリーが続き、最終的には友人いわく「でも最近の映画の有色人種をヒロインに持ってくる制度には多少辟易している」と締めくくっていた。ホワイトウォッシュからポリコレへ広がったことと、友人という信頼関係があるからこそ、一般的には言及しづらい人種の話題とポリコレ批評ができたこと、はっきりとした答えのない問題について話ができたことなどとても楽しく、充実したお喋りだったと感じた。

となると当然「パートナー」とかいうものにソレを求めてしまうようになるが、その点においてもいろいろな理由(そんな人は母数が少なく私より素敵な女性を既に得ている)から絶望しているので今回は置いておく。

 

そういえば、高校・大学と身近に一人はイシュー会話をする友人がいたため気づかなかったが、あるテーマを持ち出したり、自身の○○観を例にとってみたり、という会話の方式をとる人は一部だったのかもしれない。

 

以前外資系の会社に勤めており、社長がヨーロッパに暮らすアメリカ人だったのだが、忘年会などに参加してもさして楽しそうではなかった。

営業さんなど気を使ってお酒を勧めたり、話しかけたりしていたが、誰かがぼそっと「まあ、社長はあんまりこういう席で仕事の話するの好きじゃないから(だからあまりノリがよくない)」とフォローしていたが、仕事の話が好きではないというより、「会話観」が合っていなかったのかもしれない、などと思ってみたりした。

私たちは社長に気を使って、A社との取引上手くいってよかったですよね、とか今度のB社のプレゼンはこうしたいですね、とか前向きな仕事の話をするが、もしかすると退屈なのかもしれない。(私は仕事に興味がないので退屈だが)

 

しかし、多くの人にとってはイシュー会話の方がややこしく面倒だと思われる。

だからこそ、飲み会は「ノリ」が大事だし「みんなで楽しく」とはお茶の間バラエティのようにネタ出来な会話で笑ったり、仕事上必要性のある具体的な出来事の共有や、日常の近況を傾聴しリアクションすることであろう。

そうした様式美が、友人関係や、職場の愚痴を言い合える程度の距離感の同僚にも染み付いていて、言っている意味ががよく分からなくなったり、深刻なラインに踏み込んできそうになったら「ああ~はは」と笑うのであろう。

 

しかし同時に楽でもある。

真剣に「きちんとした会話」をしていたら、ちょっとした冗談を咎められたり、私の怠惰な考えや行動も指摘されかねず、それはそれで耳が痛い。

相手が「それは違う、あなたは間違っている」という代わりに「ああ~はは」と言ってる可能性は高い。それが同時に、手ごたえのない会話となっているが、心がざわつく指摘や軋轢から救われてもいる。

しかしそのために、私たちは、友人でさえ、「あはは」と曖昧に笑う裏で、本心は違うことを思っているのではという不安を持っており、少しずつ不信を募らせているのではないだろうか。