日記

日記です

私以外みんな人間

昨日人の集まる場所で、あ、この人彼女なのかな?て人がいて、男性は彼女が来るとちょっとはしゃいでじゃれる感じで話しかけ、その後移動した二人は彼女がトイレにでも行ってるようで彼氏がトートバックを肩にかけ待っていた。人間たちはこうした安心感と信頼の間に身を置いているらしいことを知った。

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土曜日、たまに行くバンドを見るためにライブハウスに行った。

新宿の初めて行くところで、猥雑な新宿らしい通りを抜けた場所にあってなかなかいい場所だった。

小さなライブハウスで、売れっ子でもないので出演者は他のバンドの演奏の時に観ていたりするが、そんなに好みでもなく知り合いでもないバンドの時は観ないで外で煙草を吸っていたり、知り合いと談笑していたりする。

テイストの違うバンドの時に、知人でもあるバンドメンバーが彼氏らしき人と外に出て行くのを見た。

クリスマス前の週末だからなのだろうか、その知人も、そして冒頭に書いた男性(実はそのバンドメンバーの男性)も、クリスマスらしく表現するなら「恋人」を携えている。

自主企画とかレコ発でもない限り、いつもなら見かけることがない気がするが。

 

で、先に書いた男性は私の目の前の椅子によりかかっていて、そこにロングコートにベレー帽、丸メガネ、トートバッグというサブカルらしいいで立ちの女性がやってきて、彼女が来た途端彼の顔は無邪気に輝いていた。

これはよく言う「素の表情」というやつだろう。

よく、こういう女はモテない、みたいな例に出てくるような格好の、ゆるふわ女子らしい雰囲気ではない女性、そういう女性をきちんと好きな男性というのは一定数いるのだから、世間のモテなんちゃらはアテにはならない。

 

バンドとして出る演者が素みたいな表情を、この彼らにとって社会である、この公的な場で、うっかり出したりはしない。

 

何度も見ているバンドだが、彼も通常はそんなテンションでいたことはなかったと思う。

しかし、彼女なのだろうと分かるくらいには、(音が大きいので)至近距離で耳元で話しかけ、おそらく無意識でそっと背中のあたりに手を添えてあった。

そしてちょっとじゃれるように、よくなついている子供のように無邪気にまとわりついていた。

さっきまでの社会的な存在から、一個人に変わった瞬間である。

 

その後2人は場所を移動し、後方で彼はさっき彼女がもっていたトートバッグを肩にかけ立っていた。

きっとトイレにでも行ったのだろう、ほら、ライブハウスのトイレは狭いから。カバンを掛けるフックが付いていないところもざらにあるし、荷物はなるべくないほうがいい。

 

そうなのだ、人間たちはこうした安心感と信頼の間に身を置いているらしいのだ。

 

正直、今日ここに来るまで、というか今週はやけに気分が落ち込んでいた。

PMSなのか?と思っていたが生理が始まっても落ち込みと鬱屈は深くなるばかりだった。

そこに来てさらに、人間の信頼と安心の営みを目の当たりにしたら、ますます気分はえぐられる。

 

別に売れているわけではないバンド、彼らにだって平日は普通の仕事がある。

そんな生活でも、ライブに備えて練習をし、パフォーマンスをする生活の、多少の苦労と得難い充実は想像できる。

楽器の技術が少しずつ上達することの面白みも感じることだろう。

私も漫画を描くときに、思った通りのコマが描けたときの喜びなんかは、きっとそれにあたる。

そういう地味な苦労や、ちょっとした喜び、それは私ももってる。

でも、さっきのアレはどうだろう。

「信頼と安心の営み」私にはそれはない。

みんな、面倒な生活の積み重ねや苦労と、ちょっとの充実とプラスして、「素の表情」というのを見せられる信頼で結びついた安心できる相手がいるのだ。

よく言う「楽しさは2倍に、悲しみは2分の1に」というやつだ。

 

で、私は?と思う。

もちろん、カップルとはいえ必ずしも満たされた信頼の中にいるわけではないとか、一人でいる時に感じる孤独より、2人でいるのに感じる孤独の方が孤独、とか、一筋縄ではいかない「知られざる実情」「2人のことは2人しか分からない」というやつがあるのだろう。

 

しかし、少なくともさっきの表情は、幸せと充実に満ち足りていた。

そういうものを見たとき、圧倒的に自分には「その辺」が抜け落ちていることを痛感する。

いくら一人の時間を楽しめるのが大人、とか、他人に合わせるのが面倒なら孤独を受け入れるべき、とか、自由には代償が伴う、とか、自分を律する冷静な言葉を並べてみても、私には圧倒的にアレらが欠けているのだ、という欠落感はやはり埋められない。

 

辛いことや悲しいことなんかを、気安く友達には打ち明けたくない「本心」と言われるようなやつなんかを、あなた方はその相手に話して、理解され、初めは他人だった彼/彼女に、今は深く理解されているという安心を実感し、少し救われたりするんでしょう?

 

そういう時は大抵、どれだけつらかろうが、悲しかろうが、私は一人で受け止めて、一人で抱えて、一人で処理している。だから、私の方が偉い。私の方がすごい、と言ってみたりする。

だからエルトン・ジョンの映画「ロケットマン」が好きだったりする。

 

じゃあそこで誰かに、そのすごさを認めて「頑張ってますね」「あなたほどすごい人はいない」「自分で自分を認めてあげていいんだよ?」とか言ってほしいかというとそれは全然違っていて、お前なんかにわかってたまるか、と思う。

お前ごときが知った口聞くなよ、なんの足しにもなんねえよ、という怒りがわいてくるので、これはまあ、まだ生命力が力強く残っている事であって、多分いいことなのだろう。

しかし何の解決にもならないが。

 

しかし、こんなにも「なんか自分だけ損してる」という気分になるのは、おそらく自由に生きていない証拠でもあると思う。

もちろん、誰しも自由には生ききれていないだろうが、どこかでちゃんとしようとして自分に制約をかけているから、嫌な気分が深くなる、という説はどうだろう。

例えば私はライブハウスに来た時に、別にそんな義理はないのに、なぜだか知人であるバンドが出るからこそちゃんと全部観ないと、などと思っていて、意識だけはこの「中の人」みたいになっているのだ。

だから好みじゃなくても、ちょっとたるくても、椅子にもたれたりもするけど、顔はステージに向けている。まあ、狭いライブハウスで他にすることもないし行く場所もないからだが。

しかし、演者である当の本人たちは、(いろいろやることもあるので)別にそんな律義にやっていない。

私は真面目にちゃんとしているのに、別に報われていない。

そういう気分が余計に足を引っ張り、暗い気持ちに拍車をかけている気がする。

そして、それは単にこうした出来事に留まらず、人生全般に、どことなく「ちゃんとやってるのに」「真面目にやっているのに」という報われていない感を増幅しているのかもしれない。

努力だってやり方が間違っていれば効果はない、それは大人になる過程で知っていたつもりだったし、ここ最近の私は、これといって努力を重ねた記憶もない。

 

他人を羨んだり、誤った恨みを持たないためにも、やっぱり好きに自由に生きるのがいいのかもしれない。

もうちょっと好きなことをやろう、とこれを書きながら思った次第である。