日記

日記です

考えてもしょうもないことについての考えを述べる人

私が以前の漫画を描くときに参考にしたのは、某社会学の先生である。

そこへは自力で辿り着いたわけではなく、比較的新しい友人が好んで読んでいたために興味を持ったのだ。

それはやはり、少なからず相手に尊敬や憧れの念があったからだ。

一通りネットでググり、1年後は一応読みやすそうな本も買い、一部同意しない点もあるものの、全体として面白く納得しながら読んだ。

それとは別に、話題の本として5時夢で紹介されていた「ぼくイエ」も読みやすくおもしろかった。

イギリスにおける高度な教育に基づく人権意識の高さには関心すると同時に、こんな教育が受けたかったと悔しいような悲しいような複雑な気持ちになった。

その本で印象的だったエピソードの一つに、大雪が降った日に、地域の人たちで避難所を開放し物資を集める場面がある。

イギリスでも政府が変われば福祉が切られることもあり、その影響で市が避難所を設けなかったため、地域の人が行っていたようだった。

そのため、作者は子供を連れて町をパトロールし、ホームレスなどに避難所があることを伝え、家にある余った紅茶を配って歩いたり、避難所に寄付したりしていたのだ。

(ごくナチュラルにホットの紅茶を差し出すところがイギリスっぽさを感じた)

もちろん、ほかの主婦たち(平日の日中に時間が取れる人がやるのだろう)も余ったクラッカーなどを持ち寄って自主的に協力していた。

おそらくこうした行動が普通のことなのだろう。

作者の息子も学校が休校になり、一緒に手伝っているところからも、習慣として身につく様子がうかがえる。

 

冒頭に書いた社会学の先生も、人の内発性や利他的な行動に焦点を当ててそうした行動の重要性を説いている。

また、そうした意識の欠如と関連付けて社会や政治の悪化つまりは人の劣化を指摘している。

 

成人君主とまではいかないが、いいひとになりたい、いいひとでありたい、と思うのは普通のことだろう。

利他的な人になりたいと思ったし、その動機は本に感銘を受けたからというより、尊敬・憧れる友人が少なからずそうした信条を大切にし実行しているように見えたから、私も精神的にだけでもその仲間に入りたかったのだ。

 

ちなみに、私の上記のような思考回路そのものが、その社会学の本におけると内発性や利他的な行動の動機づけになるものだった。

信用している人から信用されたい、そこに恥じない行動をしたいという意識がダメな行動のストッパーになるらしい。

 

そんなわけで、最近はその社会学の先生のツイッターをフォローしている。

ちなみに、最近気づいたんだけど、この先生や、あと私が最近好きな批評家で大学教授をやっている先生、それとミュートしてしまっているが好きなタレント(?)モーリー・ロバートソンはツイートが多い。(東大関連者はツイート&リツイートが多いのか?)

 

読み飛ばすことが多いが、この社会学者の先生のリプライとやり取りで興味深いものを見つけた。

それは、既婚子持ちの30代男性だったのだが、おそらくこの先生をフォローしており、提唱している内容もよく理解しており、ここで提示されている良き人間になりたいと思っている。

しかし、自分が「損得勘定を超えた人間」になれそうもない、損得以外で考えたことがない、自分の子供には内発性を大事にした子に育ってほしいが…という内容を投げかけていた。(この先生はかねてより損得で動く人間はダメと言い続けている)

 

 

私はどういうわけか、友人など密な人付き合いにおいて、損得でないのは当然で、自分は損得での付き合いはしていない、と思い込んでいた。

(だから同時に恋愛相手をスペックで選んではダメ!心の目で…などと思いながらも条件のいい彼氏を連れている友人がうらやましいという葛藤がある)

なぜなら、この先生の言う損得勘定の関係はダメということに容易に同意するから、なんでダメなの?とか疑問に思わないからだった。

 

しかし、頭で理解していても自分はそうなれないと思う人がいることを知り、私は自分を疑うことなく損得の人間じゃない、と思っていたけど、果たして本当にそうだろうか?

と疑問がわいてきた。

 

なぜか自分の中でスムーズに同意し理解していれば、自分自身がそうなのだと思い込んでいた。

 しかしそういえば根拠もないし、証明もできない。

正直私は、友人の、いわゆるハイスぺ男性に値すると思われる高学歴の彼氏を羨ましいと思っている。

 

ところで話は変わるが、最近友人が、かつて若い頃付き合っていた男性について、「事実しか話さないで感想を言わないからつまらないやつだと思っていたけど、昨今言われる男らしさ問題で感情の言語化が苦手だっただけ」だったのかも…ということを言っていた。

 

確かに、読書感想文を書くように、たとえ親しい仲であっても「思ったこと」「考え」を話すのは訓練がいるのかもしれないし、そうした内容を求められた経験がなければ、改めて話すための原稿として考える こともないのかもしれない。

機会と経験と訓練の問題だったのかも。

あるいは、あれこれ考えているが、わざわざでかい声で言わないだけ、という韜晦かもしれない。(だったら羨ましい)

 

しかし最近考えたのだった。

問題提起話法(なんてあるのかな?)をしない人、つまり例えば「ビュッフェ行きたがる人っているじゃん?」など、ある事象に対しての自説を披露しない人、正解はないんだけど思ったことを語ることをしない人、つまり事実しか話さない人だと思うのだか、もしかしたら、現実に自分に直接関係のないことはわざわざ考えたり論じたりするのは無駄だから考えないのでは?

と思ったりしたのだ。

私は問題提起話法をする友人が少なくなく、自説を聞くことも話すことも多くそうした話も好きだ。

しかし人によっては、偉そうに論じるなど恥さらしで、こだわりが強くめんどくさいと感じるかもしれない。

 

よって、あれこれ考えていても、めんどくささを発する恥ずかしいヤツにならないために何も言わないというタイプもいるだろう。彼らは友達が多そうだ。(スマートで羨ましい反面、腹の内がわからないので怖いとも思う。)

または、考えても論じても無駄なことは考えない、なんなら、そうした合理的な振る舞いがスマートであると考えてそうしている可能性もあるかもしれない。(こちらは冷たい人だと思ってしまう)

 

いずれもどういう態度が正しいとかはないが、個人的には「考えても仕方ないから考えないし論じない、その方がスマート」というスタンスの人だと距離を感じると思う。

 

あとは一定数、論じようにも自説の信憑性に自信がなく、万が一論破でもされたらプライドが持たないとか、そこまで深く考えることに興味がないため、周囲の会話と同じ質量で話せないので話さない、または、これまで攻撃的な友人関係の中に身を置いてきたため、個人的な意見(普通正解などないものでも、バイアスが強い人に囲まれた場合など)を「それは変だ」と否定された経験があるので話したくない、などもあるのだろうけど、言語化が苦手であることと、そもそもそこまで興味もないし考えない、というところにはそこそこ隔たりもある気がする。

 

 思い返せば、幼馴染Sはバイアス強め(というか当時10代なので仕方がないが)のタイプであったため、身に着けるものや好きな音楽に関して、あからさまに嘲笑しながら指摘されたものだ。

というか、彼女の場合は私に対して攻撃し、それによって困惑する表情を見るのを面白がるモラハラタイプだっただけだが、それによって自分の意見を言うのが怖く、周囲の反応を見ながら適宜正しそうな発言をしたものだった。

今はそれをしなくなったので、ずいぶん生きやすくなった気がする。

 

最近、好きなブロガーの方が、理想のタイプを強いてあげるとすれば、一定数以上の本を読む人だと言っていた。

必ずしも読書量と人間性が比例するとは言えないが、さまざまな本を読む人は偏見が少なく寛容だと思われるから、物事を一刀両断せず想像力を働かせながら考えられると思うから、と言っていた。

ちなみにこちらの記事である↓

 

am-our.com

 

で、長々と書いたが、損得勘定で動く人とは、ここにあげた私が好ましい人物像とは真逆な気がするのだ。

ブロガーの方の言う理想のタイプは寛容で偏見が少なく狭量でない人と思われ、私も同意する。

また、答えの出ない、考えてもしょうがないことについての考えを話したがる人(論破を目的としていない)も、想像力があり、常に物事に対する自分なりの判断基準を更新し、かつ他人の考えにも興味を持っている気がして好きだし、何より話していて楽しい場合が多い。

ただし、自分の考えを誇示する目的、正しさに同意を求めるステップとして話している場合は即刻嫌な人になるので私も注意が必要である。

 

そんなわけで、果たして私自身が損得勘定で動いていない人間か否かは、それを損得人間になりたくないなら、そうならないよう日々開拓するしかない、ということである。

ダークサイド(使い方合ってんのか?あの映画ちゃんと観たことない)に落ちたくないなら、自分のつま先で踏ん張るしかない、と思ったのでした。