日記

日記です

自粛中QOL

自粛で楽しみが制限されてみんなの下がったQOLの位置に私の常時のQOLがあるため、みんなの調子が悪くなって相対的に私の調子が上がる、という目の錯覚が起きている。

(もちろん、生活がかかっててヤバいという人は除く。自分がコロナと生活経済が直結していなくて幸いだったと思う。10万申請したら、微々たる額だけどライブハウスとミニシアターと喫茶店に寄付したい。)

最近地味につらいのは、正直自粛がツラくないということ。

この前、雑誌で漫画を連載しているらしいイラストレーターさん、何ならゆるおしゃれイラストレータ美大卒さんが、インスタのストーリーに

「今ライブハウスに行けなかったり、みんなに会えなかったり、つらいなー、ただ飲んだりしゃべったりする時間がこんなに大事だったなんて」

みたいなことを言っており、もちろん言わんとすることはわかるのだが、この人の生活には、当たり前にデフォルト設定で「みんなと飲む」とか「ライブハウスでみんなに会う」だとかがあったんだなーと思った。

私、正直ライブハウスに行っても「みんな」って言えるほどの仲間のコミュニティに属していなくて、全然「そっち側」にいてないことを実感する。

友達と飲むのも、そもそも飲酒する友達が少ないのと、そうした友達と会うこと自体数か月に1回とかなので、常時「みんな」と飲んでだべって…ということをしていない。

お酒飲まない人にとっては、喫茶店でコーヒー飲んでおしゃべりとかが当てはまるんだと思うけど、なんとなく、この人が愛しがってる時間って、私にもともとなかったような気がした。

 

どっぷり創作の渦中にいて、表現者としての当事者意識がある人ほど、この自粛期間は、単にパフォーマンスができない、ということ以上にメンタルに来るものがあるらしい。

それは疫病そのものの恐怖だったり、政府の対応だったり、経済のことだったり、いろいろな理由からくるものらしい。

そこでも私は、正直自粛で会社の存在自体が希薄になって、在宅勤務というものが生活に組み込まれ(ただし毎日在宅じゃないのがクソ!)、精神的にも会社の存在が二の次になって、今モラトリアムみないな時間になったことがとてもうれしい。

ライブに行くとかの楽しみが減ったけど、それ以上に会社に行く日数が減る、ということのほうがものすごくうれしい。

だから、緊急事態宣言解除とか心底やめてほしいと思ってる。

そういえば、桃山商事というトークイベントなどをするユニットに属する女性が、婚活中だがコロナで結局男性と会えない状況について、焦るどころかみんながみんな停滞しているならいいか、と思えて逆に焦らなくなったと言っていた。

私もそう。

みんなの日常から旅行とかアクティブなレジャーが消えておうち時間なんかやってる今、正直もともとも私の生活に旅行とかなかったし、みんながみんな足並みそろえて停滞して、心が落ち着く。

同時に、これまでの私の焦りや不服感なんてものは、所詮相対的なものだったのだと気づく。

 

で、私にとっては、やっぱライブハウスもレジャーの一つであって、楽しみの一つであって、全然当事者じゃなかったんだな、と思っている。

もちろん、パフォーマンスする側ではないので当たり前なのだが、例のイラストレーターさんの「精神的にキてる」って、単に仕事が減ったとか、経済的な先行きが見えないことだけを指してはいないだろう。

どちらかというと、当事者として「そっち側」に意識が入ってるからこそ、ライブができないとか人が集まれないとか、そういうこれまでの表現の場がぐらついている「文化の危機感」に胸を痛めているのではないだろうか。

 

意識の問題なので、別に私だってそうしようと思えば、表現者然として今の状況を憂うことだってできるんだけど、今まさに自粛生活っていいな…と思っているので、私は精神的にも完全に会社員なのだと実感している。

 

コロナ自粛がツラくないというツラさは2つある。

この、精神的にも会社員であるというつらさと、自粛で無問題というくらいに、もともと私の生活って低かったな…ということ。

低いというのは生活水準の話ではなく、私の普通とみんなの普通って、もともと質が違ったというか、みんなは100点満点中20点くらいの生活になったのかもしれないが、私は10点満点中の10点の生活になっただけというか。

 

もともと私の生活って、みんなの自粛生活とおなじだったんだよ…という気付きである。

最高のドレスだとおもってた服がZARAのワンピースで、みんなにとってはそれは手軽でブランド風モードファッションの代替品的なお得なファストファッションだった…というか。

 

この自粛ツラくない現象の根幹には、もともと私がみんなと同じベクトルで生きていないという点もある気がした。

人と会えない、話せない、つらい、というのは、会話などのコミュニケーションが発話や発声以上の意味を持っているからだろう。

いや、人によっては、会社の飲み会でみるようなにぎやかな「ノリ」が生活からなくなったことで「さみしい」と認識する人もいるのかもしれないけど、今の話にそういう人は除く。

 

たとえば、私は常に人と対峙したとき「ある」「なし」でいえば「なし」の側である。

彼氏や配偶者はなし、仕事への情熱的なものはなし、なしの人とありの人では、どうしたって会話をしているときの背景やその先に見据えた未来みたいなものは違っている。

それがわかっていると、距離感はどうしたって生まれるし、会話していても空虚な気持ちになる。(多分相手も)

具体的にパートナーがいない人にとって、そして地続きにそんな未来があると思えない人にとっては、他人の恋愛の話を当事者意識を持って聞くことは難しい気もするし、それに、「いる人」「いない人」では話してもらえる内容も違うと思う。

仕事においても、転職一つとったって、いつ辞めてもいいや、って仕事で転職を考える人と、仕事内容は好きなんだけど辞めたいかもしれない、って人と会話は深いところでかみ合わない。

そんな感じで、私のしてきたコミュニケーションの質って…?

ということを問い直したとき、やはり当然自粛がツラくないというか、会えない話せないという今の状況と、会える話せるというかつての状況と、あまり大差ないのは当然かもしれない。

 

これが自粛がツラくないことの真髄かもしれない。

雑にまとめすぎだけど、もともと私の生活の価値が低く、コミュニケーションの質も低かった。(もちろんこれは、相手のせいじゃなく私のせいで)

そんなものはないのかもしれないが、「本当の生活」とか「本当のコミュニケーション」ってどんなものだろう。

失われた時間を愛しがるほどの「本物の時間」ってどんなものだろう。とか思ってしまう。

もちろん、笑いの沸点が低い、みたいな感じで感動の沸点が低い(ってあまりにも何様?な言い方だけど)人はめっちゃ愛しがりそうだけど…。いや、だとしてもやっぱりそんなに生活を溺愛できたのすごいよ。本気で生きてるって感じ。皮肉じゃなく。

 

今、YouTubeで久保能町リモートラジオが聞けるんだけど、前の放送で久保さんが、だれかの曲で「深夜の他愛もない君との会話」みたいな歌詞を聞いて泣けると言っていた。

それは、まずもって今後の自分の人生にそんなことはもう起こらないんだろうな、という悲しみと、今世界では、たったこれだけのことがみんなできないでいるんだな、という切ない気持ちで泣けるらしい。

めちゃくちゃわかると思った。

自分の地続きにそんな日なさそうだなもう、残念だなーというさみしい気持ちがあって、そこで幸せそうな他人にたいして苛立ちとかも向けられそうなもんなんだけど、やっぱこんな時期だから、あーいまみんなついこの前までできてた当たり前のことができなくなって、あれってあんな大切だったんだ、って実感してるんだ、それってせつねーという気持ちがある。

とはいえ、私の場合はエンタメ消費的なエモい!泣ける!という側面も強いけど。

 

コロナ明けたら、またみんな外にレジャーに行って誰かと飲んでだべって、会話というコミュニケーションを通じて他人と理解しあうということを享受するんだろうな、そして私は変わらず一人で買い物行って、飯食って、深いところでちょっとずれた会話して、変わらない生活を送るんだろうな、ということを考えている。